第十回



 
半世紀を越えて
   ―「月光」の旅 ④



 黒木國雄が五月の空の彼方へ消え去って五十五年が過ぎた。
 彼の残した遺書は茶色に変色し、文字も薄くなりつつある。半世紀の時の流れは、戦争の記憶を薄れさせようとしている。
 だが、残された写真の中の彼は少しも色あせてない。二十一歳の特攻隊長は古武士のような風格を持ちながら、繊細な感性を漂わせている。なぜか私には懐かしい人のように感じた。

 私が引き付けられる写真がある。
写っているのは飛行服姿の五人の男たち。五月初旬の緑輝く風景を背景に談笑している、のどかな光景だ。
 ところが、真ん中の黒木國雄だけは笑っていない。両手を腰に当て、目線を落とし口は真一文字。じっと何か考えているように見える。
 写真を見つめていると、彼が何かを語りかけているような気がしてきた。他の隊員たち一人ひとりの表情にも、込められた何かを感じた。
 あの表情から何を読み取ればいいのだろうそう考えながら私は國雄の弟民雄と会った。彼がふと漏らした言葉がある。
「兄は悩んでいたようです」
それを聞いて私は、報道班員だった高木俊朗が、國雄と初めて会った時の印象を書いた一文を思い出した。
「たくましい顔であったが、沈痛な色をたたえていた」
        (「遺族」より)
 あの写真の表情と結びついた。



出撃の日を待ちながら知覧飛行場で談笑する黒木隊。中央の黒木國雄だけが目を伏せている。
彼は何を思っていたのだろうか。(高木俊朗撮影)



 実は、彼は陸軍特別攻撃隊・第五十五振武隊隊長として出撃したが、途中、飛行機の不調で引き返している。
 部下の指揮を他の隊長にゆだね、翼を返そうと操縦席で挙手の礼した時、涙が流れました  と語った。その直後、高木は彼の表情に「沈痛の色」を見た。
 黒木國雄は陸軍士官学校を出た生粋の軍人である。日本のために命を捧げる覚悟はできていた。
 彼の幼なじみも「彼は特攻隊を志願したのではないか。自分の身を捨ててもやらねばならないと思う質実剛健の人だった」と言う。それだけに無念だったに違いない。

 すぐに黒木隊は再編成された。再び彼は部下を引き連れ、体当たり攻撃に出なくてはならない。
 國雄は責任の重さを噛み締めていた。部下たちは隊長の胸の内が痛いほどわかり、あえて明るく振る舞っていたのでは私はそう想像してみた。
 一枚の写真に、実直で誠実な黒木國雄の苦悩、死を目前にした若者たちの複雑な心境と強い絆を見たような気がする。




 黒木隊が出撃したのは昭和二十年五月十一日。もはや戦局の前途に望みはなかった時期である。しかし、大本営は嘘と誇張で固めた宣伝を今だに続けていた。
 当時の新聞をめくると
「荒鷲の母は叫ぶ 私どもも特攻隊に-頭下がる“平凡な母”の言」
「沖縄周辺の敵中へ突撃 空母等十五隻撃沈」
「空水の特攻隊・反覆猛攻中 敵に甚大なる損害」
「神風特攻隊の偉勲不滅」
 虚構が覆い尽くしていた。
 そんな中、まさに死ぬことが任務であるかのような特攻戦法が繰り返され、美談に仕立てられ、戦意高揚に利用された。
 私は、この悲劇の背景にあるものを知りたくて、五年前の夏、NHKディレクターの皆川信司、ピアニスト松浦真由美と鹿児島県知覧町を訪ねた。
 一面に草生し、忘れられつつある飛行場跡を歩きながら、戦時中、特攻機の整備を担当していた二人から話を聞いた。




 田之頭秀雄は太刀洗陸軍航空廠知覧分廠隊長だった。当時、三十歳。
強い口調で言った。
 「特攻の命中率は非常に悪い。練習もしていないから命中しないことは分かっている。今考えれば、ばかなことであった」
 数十機出撃して、そのうちの誰かが敵艦に当たればいい、という考え方だった。軍の上層部は命中率を約六パーセントと見ていたが、現場の上官の中には、せいぜい三パーセントか、それ以下だという人もいた。
 百機出撃して三機ぐらいしか命中しないだろう、というのである。
 特攻に使われる飛行機もひどい状況だった。
 当時、十八歳の整備兵だった米盛勇は、知覧特攻平和会館に展示された特攻機を示しながら話す。
 「日本の飛行機はアメリカと比べたら防弾が悪い。速く飛ぶために、できるだけ機体を軽くしなくてはならないから、座席の後ろに鉄板も入れていないし、燃 料タンクも防弾していない。古くて、とても実戦に使えないような練習用の飛行機も来た。私たちが直して飛ばしていた」
 撃たれたら簡単に貫通して、一瞬のうちに燃え上がった。
 「人間のことは考えていない」と米盛は言う。淡々とした口調だが、その言葉には怒りが込められていた。
 出撃に間に合せるため、整備兵たちは何日も徹夜して修理した。しかし、途中で故障して引き返してくる隊員も多かった。
 「途中で飛行機が故障しても、出た以上は帰って来るな。海に突っ込んでもいい」。そう激を飛ばす隊長は少なくなかった。
 死ぬことが特攻隊の目的になりつつあった。
 そんな中、飛行機に問題はないのに七、八回帰って来た人もいた。田之頭は「生きて帰って来た人たちのことは言いたくない」と口をつぐむ。
 米盛はつぶやくように言った。
 「生き残った人たちは心の中で『よかった』と思っているかもしれない。それが本当だろう、人間だから」


最後の作戦を練る三人の特攻隊長。左が黒木國雄。同じ日に彼らは部下を率いて
出撃していった。(高木俊朗撮



 黒木國雄の部下は全員、大学や高等学校に通っていた学徒出身者だった。陸軍士官学校を出た國雄とは受けた教育が全く違う。
 出撃まで黒木隊と行動を共にした高木俊朗はこう書いている。
「学徒出身の少尉たちの気持ちは複雑であった。それは、決意というよりも、諦観というべきであったろう」
        (「遺族」より)
 死を目の前にして懸命に自分を納得させようとしていた。
 出撃前夜、彼らが高木のノートに書き綴った手記がある。文面から一人ひとりの悩みや迷いが伝わってくる。
 高木の著書から一部を抜粋する。


■京谷英治
 早稲田大学の京谷は大の飛行機好きだった。夜も寝ずに他の隊員の特攻機を整備して、完全だという飛行機を渡した。自分自身は、誰も乗りたがらない馬力の一番少ない飛行機を引き受けた。
 出撃直前、京谷は報道班員の高木に「飛行機と自分とを一緒に撮ってほしい」と頼んだ。愛機の胴体には「京谷少尉」と大きく、ペンキで書いてあった。まるで飛行機の名前が「京谷少尉」であるかのようだった。

【手記】
 遂に日本は重大な時局が到来しました。自分みたいな者にも、必勝の鍵が、僅かではありますが渡されてゐると思ふと、果たしてうまく轟沈し得るか、その責任の重大さに恐懼するのみです。
 自分はほんとに技倆よりも精神力にて、何とかして敵を沈めんものと思ってをります。機上で雑念がおこりはしないか、敵を発見して、果たして悠々たる心境になる得るか。気になるのはこれです。


■鷲尾克巳
 第一高等学校の鷲尾は複雑な境遇の中で育った。無邪気な目をしていたが、何かを思い詰めているようだった。「いろんな恩義というものを考えると、気持ちの動きがとれなくなって」と漏らしていた。

【手記】
 個と全との矛盾は我が心情中に解決し得たとは言ひ得ず。靖国神社の奥殿にて さぞ恥しからむ。
 我は永生を信ず。今後沖縄の戦局は我等が永生。我が友等の我が思ひ出は我等が永生。大きくは今後日本の歴史の流れの中に我等は生きむ。我が二十三年の一挙手一投足 すべて何処かに生きてあらむ。

■上原良司
 高木は慶応義塾大学の上原の言葉に驚いた。
 「全体主義で戦争に勝つことはできません。日本も負けますよ。私は軍隊でどんなに教育されても、この考えを変えることはできません」
 あの時代に「私は軍隊の中にいても自由主義者です」と言う。上原の考えは黒木隊の隊員はみんな知っていたが、誰もふれようとしなかった。
 「学徒出身の隊員は、そのようにして、上原少尉の気持ちを尊重していたようである」  (「遺族」より)

【手記】
 思へば長き学生時代を通じて得た信念から考へた場合、或ひは自由主義者といはれるかも知れませんが、自由の勝利は明白なことだと思はれます。人間の本性 たる自由を滅することは絶対にできません。たとへ、それが抑へられている如く見えても、底においては、常に闘ひつつ、最後には必ず勝つといふことは、かの イタリアのクロォチェもいっている如く、真理であると思ひます。
権力主義全体主義の国家は、一時的に隆盛であらうとも、必ずや最後には敗れることは明白なる事実です。我々はその真理を、今次世界大戦の枢軸国家において 見ることができると思ひます。ファシズムのイタリアは如何。ナチズムのドイツ亦すでに敗れ、今や権力主義国家は、土台石の壊れた建築物の如く、次から次へ と滅亡しつつあります。真理の普遍さは、今、現実によって証明されてゐます。過去において歴史が示した如く、未来永久に、自由の偉大さを証明して行くと思 はれます。自己の信念の正しかったこと、このことは、或ひは祖国にとって恐るべきことであるかも知れませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。現在のいか なる闘争も、その根底をなすものは、必ず思想なりと思ひます。すでに思想によって、その闘争の結果を、明白に見ることができると思ひます。
 空の特攻隊のパイロットは、一器械       にすぎぬと友人がいったことは確かです。操縦桿を握る器械、人格もなく、感情もなく、勿論、理想もな く、ただ敵の航空母艦に向って吸ひつく、磁石のなかの鉄の一分子にすぎぬのです。理性をもって考へるなら、実に考へられぬことで、強いて考へれば彼らのい ふ如く、自殺者とでもいひませうか。精神の国日本においてのみ見られることだと思ひます。一器械である吾人は、何もいう権利はありませんが、ただ願はく は、愛する日本を偉大ならしめんことを、国民の方々にお願ひするのみです。(中略)
 明日は自由主義者が一人、この世から去って行きます。彼の後姿は淋しいですが、心の中は満足でいっぱいです。



 彼らは空へ消えていった。
 「特攻隊の人たちは、自分が死ぬことで日本のためになると信じていたんでしょうか」
 五年前の夏、ピアニストの松浦真由美は元整備兵にこんな質問をした。答えはこうだった。
 「遺書を見れば分かります。彼らは、この戦に勝たないと平和は来ない。自分たちが特攻に出ることで、日本がよくなる、と思っていました。日本の国、日本の人を愛していたから出撃したのです」
 松浦も私も複雑な気持ちになった。元整備兵の二人と別れ、知覧の飛行場跡をしばらく歩いた後、松浦は静かに語り始めた。

   特攻隊について私は知らないことが多過ぎると思う。ここに来て初めて、日本のためと思い出撃していった人、疑問を持ちながらも行った人、引き返して きた人さまざまな人たちがいたことを知りました。その時代の教育もあったし、特攻隊が美しいとされる風潮があり、その中で彼らは選択を迫られていたのだと 思う。
 整備兵だった人が言っていました。最初は「かわいそうだなあ」と思って見送っていたけれど、だんだん慣れてきて「ああ、きょうも行くか」という感じになってきた、と。死が日常のことのようになっていく戦争の恐ろしさ、悲しさも知りました。
 特攻隊の人たちが突っ込んで行った先にもアメリカの人がいた。その人たちにも家族がいて、どちらにも戦争は悲劇だった。
 自分は戦争について知らない、ということに気づけたのは大切なことだった。体験した人たちはもっと私たちの世代に戦争のことを教えてほしいし、私たちも知ろうとしていかねばならないと思う。
 知覧に来て、特攻隊の人が出撃前に弾いた、傷ついたピアノを弾かせていただいた時から私の旅が始まったような気がします。
 それまで私には祖父がいないのが当たり前と思っていました。でも、あのピアノを弾いている時、祖父の姿が自分の中に立ち昇ってきて、初めて実像を結びました。祖父と特攻のピアノ、沖縄が少しずつ線を結び始めたのです。それは自分の中で自然な流れでした。
 初めて祖父が恋しくなり、生きていてくれたらなあ、って思いました。
 特攻隊の人には「生きたかった」って叫ばせてあげたかった。「堂々と生きて帰って来ていいんですよ」と言ってあげたかった  。


松浦真由美に「彼らは日本の国、日本の人を愛していたから出撃した」と語る元整備兵の米盛勇。
後ろに見えるのは、特攻隊員が寝泊りした三角兵舎。(1995年7月)

 

夏草に覆われた飛行場跡に帳(とばり)が降りつつあった。
 写真の中の黒木國雄を浮かべ、切ない思いにかられた。そして私は、兄のような懐かしさを抱かせる彼に、言い知れない深い悲しみを感じていた。
           (つづく)



参考資料
「遺族」高木俊朗/「完本・太平洋戦争(下)」より「特別攻撃隊の嘘と真実」高木俊朗