へんろ一人旅④

6月1日
歩き始めた。トンネルを通り始めた時、トラックや大きなバスが、ビューン、ビューンと早く通りすぎてゆく。おまけに、人の歩く道と車が通る道とがなにも区別がない、つまり差がないのだ。それでダンプとかが通るたび、自分の体が吸い取られそうになる。約1kmのそのトンネルの間中、普段は念仏などを思うはずはないのだが、「南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛」と、唱えずには要られなかった。

そのトンネルが終わった時、それほどすっかり気持ちがすり減っている気がした。トンネルの中で壁で手を擦りむいていたし、出たところに一軒食堂あったから、タクシーを呼ぼうか、誰かの車に乗せてもらおうかとしたほどだった。

 

食堂で昼飯を取っている間、だんだん気持ちが落ち着いて来た。なにかいい手があるならそれを取ろう。なにもかにも駄目なら諦めてタクシーを呼ぼう。そして地図をよく見ているうちに、トンネルの前のところから、一本の道がすーっと這えていた。「あーこれだ!」と思った。食堂から出て、その道を辿って、町にたどり着つことができた。


6月2日
車のどんどん通る道で、特に狭いところで私は行く道で、立ち往生してしまった。
「狭い道で、ずーとこんな道だろうな?」
いくら私でも、どうしようもない。車がどんどん通る、しかし人間の通る場所がない。道をあと戻りして考えてしまう。

比較的、広い場所が取れるところに行き、タクシーを呼ぼうと、携帯の番号を押し、そして、呼び出し音を押そうした。そしたら、向かいにある店の娘さんが、「そんなとこじゃ、暑いでしょ。中へ入って休みなさい」
私は「どうしようかな」って、考えていたら、店のおやじさんが出て来て、「岩本寺へ行きたいのかね?じゃ、わしが車で送ってあげよう」
なんか、へんな気がした。【仏】が働いたような気がした。と、いうのは、一瞬前までは、タクシーを呼ぼうかな、と考え、しかし、一瞬後は八十八ヶ所の札所に向かっている。その日の内に、岩本寺のお札を納めていた。


6月3日
今日は、目が(@_@)覚めると、雨がざーざー降っていた。あー恵みの雨だな。一日、きょうは、この部屋で休みを取ろう。
かつて、高知の知り合いの民宿のおじさんが毎週、日曜日に37番札所の岩本寺の近くに実家があって、その実家に毎週、帰って来るそうだ。(30番の時におかみさんとおじさんといたところ)

そして、おじさんが「墓の掃除や花を活けかえ、そういうことが祖先の心とつながっていくのじゃないかなぁ」と、そういう話をしてたのを思い出した。きょうは日曜日だし、電話をして見よう。そして、しばらくして電話はつながり、それで会うようになった。

おじさんは話していた。「18才の時、はじめて寺に行った。そしたら、おまえの中には仏が入っていると僧侶に言われた。昔のことを、人々の間に言い伝えられていた口による伝承によることがある。

 

170年前、ひどい飢饉があった。人身御供(ひとみごくう)を立てようという話しになり、それが私(おじさん)の祖先だった。呼吸の管を入れて、生きたまま埋め、28日間生きていた。それらのことはずーっと憶えていた」と、それが話しだった。また、言った。「今、先祖を、霊を守れ(鎮魂)ということは何をすることなのか?タロットの占いで、2年前、おへんろさんが待っている。おまえは85才まで生きている(殺されても、死なない)。その間、この仕事をやれ」と、言われたのでへんろ宿を始めた、という。そんな話しをしてくれた。


6月4日
岩本寺から、山道(もちろん自動車の通る道)を通るか、または四万十市を列車で行くか?どうしようかと迷った。結局、山の道を選んだ。最初はうまく行った。昼ごろ、なんとなく疲れが出てくるようになった。腹は減ってないけど、うどん屋さんに入った。外では座るとこが見つけられる場所がない。うどんを少し食べ、そしてとにかく暑い。そして、最期の力を振り絞って、しかし力が出てこない。涙が出て来た。 

それは、先程、道で会った人の言葉が離れないからだった。その人は道の途中で車を止めて「まだ、そんなに進んどらんか、もう、ちっとは行っちょぉと思っちった。そんなこっちゃ、つまらん。そのくらいの距離じゃ、(へんろは)いつ着くかわからないよ」と言った。私はつくづく情けない気分になっていた。

その人は確か寺の住職だと思うが・・・その人は医学的なこと等・・いろいろと賢い事を言ってくれたが「水をどんどん飲めとか、脳梗塞はそういうものだとか・・」確かに、言うことはまともで、うん、うんと、うなづいてしまう。しかし、なにかを頭の上からものを言われてる気がした。
 

だけど、私は人間である!私という人間は、{尊厳のある人間}である。それをはるかに超えたしゃべり方だが、あなたは言葉というものを超えた『言葉』を信じないのか?「奇跡」というものを。それが「宗教」というものではないのか?ただ、涙が出て来た。
もう、どうしようない。そんな感じだった。私は「だめになった」気がした。もう、だめだ。なにもかもだめだ。
 

その時、車が来て、止まったので、「乗りますか」と声をかけられた。奥さんと娘さんの親切をことわりきれずに車に乗り、とうとう四万十市まで来てしまった!?

確かに途中の海はとても美しかった。しかし、あー、しまったなぁ。へんろはまだまだ終わっちゃいない。また、明日、元のところへ引き返してやろう、と思った。


6月5日
昨日のあのやり取りのあった場所まで、汽車に乗って、引き返して来て、そして、ここから、また歩き始めた。そこは古い街道で、ほとんど、人も通っていなくて、1、2時間に1人、自転車で通るくらい。木々は、こもれびでその中を、私は下を向いて、もくもくと歩いていた。

そうすると、地面を見る機会が多くて、その上にいる蟻たちに目が行き、蟻たちも、みんな、あちこちで、一生懸命働いてるんだなあ、と思った。本当にずいぶん、たくさん蟻たちはいるなぁ。
今日は、夕方6時に宿に着いた。


6月6日
きょうは、たくさんの人との出会いがあった。
昼近く、喫茶店を見つけた。そしたら、ママさんと、店員さんとが、気のいい人たちで、あれやら、これやら、話が弾んだし、よく笑いもしたし(私もよく笑った)、いい話が出来た。そして店を出た。元気が出て来た。さぁ、やるぞ。
しばらく歩いた。しかし、半島の先端ちかく、風が強く吹きはじめ、あぁ、また風だ。
 

「車に乗せて行こうか?」(あ~あ、やっぱり、弱い心の私がいる)途中の吾妻屋で車から降り、少し話をした。2人の姉さん女房のアベックは、ずいぶん人が良かった。それから、さっきの喫茶店の人が私を見つけ、お茶を1本、お接待に持って来てくれた。私たちは道傍でいろんなことを立ち話しした。お接待のことや、修行僧のことや…いろいろ話しをした。そして再び、歩き始め、宿に着いた。


6月7日
歩いていると、朝から、今日は非情に暑くて、吾妻屋の日掛けのあるところで休みを取った。吾妻屋の傍の石庭に「あらしは・つよい木を・つくる」(嵐は強い木を造る)という石に彫った碑がある。これは、私に対して、勇気付ける言葉かな。それを書いたのはタカクラ・テルという詩人だそうだ。
 

 歩いていると、昨日の2人のアベックが、車でやって来た。車の窓から顔を出した。「いいところあるから、そこへ行かないか?」と言われた。私を車に乗せて、しばらく走って、ある大師堂に私を連れて行ってくれた。

大きな川の流れの上の方から、涼しげに、サーッと風が吹いてくる。大師堂が立っていた。大師堂は小さな祈りの場として、近くの年寄りたちが集まったりしているという。

 

ちょうど、そこへ近くのばあちゃん(90才)が、お参りにやって来た。この掃除や花を上げるのも、そこに来る人の仕事だった。ばあちゃんには不思議な体験があるという。少し前、いろんなことがあって苦しくてしかたがなかった時、ばあちゃんがお経を上げていた時、弘法大師のお経の声が聞こえて来たという。澄んだ声でお経を上げる、その声が聞こえた。おばあさんはその時、嬉しくて嬉しくてしかたなかった。私はこの話しを聞いて、じっさいに聞こえるような気がした。

ホテルの食堂で夕飯を食べた。女の人が、給仕していた。しばらくして、私を見ていて「これは、あなたはすご~いことだと思います。私の従兄弟のことなんですけれど、骨が痛くて(あなたの病気と同じ病気)食事して、なんどもいうけれど、部屋にこもってしまう。それじぁ駄目なんだと思いますよ。あなたはすご~いことだと思います」私は「へえー、そんなに・・・」と答えた。


6月8日
一旦、九州へ帰るので、今日はさようらだ。再度、四万十市から出発だ。


6月17日
今、私は四万十市(旧中村市)のところにいる。頭のキズ(脳出血)については、鳴戸から四国をめぐって、松山のあたりで〝何か起こる〟(一般には奇跡と言うが、私には当然のことと言いたいが、つまりリハビリをずーっとやって来て、それに精神的なことも相まって、心の中で何かを〝掴む〟ようになると思ってた。

 

若い頃の一回目の四国八十八ヶ所めぐりの体験からだが。だからもう一回、歩いているのだが)。単に、そういう感じがするだけ。それが高知を過ぎたころから、少しずつ腕が上がるようになって来てる。私の病気は(それは病気とは言わないで、単にキズと言うのだが)、良くなって来つつあると思う。


6月18日
朝7時ころから(この前のアベック)がやって来た。私は大師堂へ寝泊まりをしたいと言った。「私をそこへ連れて行って下さい」そして、車で大師堂へ行った。あがりこんで、地図のことを話してた。そこへ村のばあちゃんたちが数人、お祈りを捧げに来た。

 

私たちは、しばらくの間、おばあさんが祈りを捧げる間、車で旅の先の方の少し見ようかということになった。ちょっと手探りのために足摺岬や土佐清水やその他を探検に行こうと言うなり、足摺岬の燈台や巨大な石を掘った遺跡や、それから私とその2人とは、懐中電灯や電池や香取マットや夏の用意を買い集めた。

よーし、準備万端。大師堂へ帰って見ると、ばあちゃんたちはすでに帰ったので、アベックは帰り、静かなところで、川を眺めることが出来た。川には夕暮れが近づいていた。


6月19日
一日中、雨が降ってた。雨は叩き伏せるように降ったりした。その日のコースは、トルネルが1600m、延々と続いていた。歩く人のための歩道も、ちゃんと出来ており、これを歩くためには、ただもくもくと歩けばよかった。しかし、ときどき大きなトラックが通った。2時間以上かかって、これらを渡り終えた。
 

そして、公共施設が空いていたので、今日の宿屋はこの公共施設だ(野宿のための公共施設という意味)。これはあのアベックたちから、事前に調べてあった。きょうのお客は、計3人だった。2人は、話がよく合ったのか、12時過ぎるまで、べちゃべちゃ話していた。私は話しはあまりしなかった。それに、明日のためには早く寝る…。

 

6月20日
自分の着る物、全部、濡れてしまった。とにかく、民宿に着いたら、みんな、全部洗ってやろう。洗濯を自分で行うのも、はじめてだなぁ。しかし、ここからは、太平洋が、まるごと、大きく見えるな。


6月21日
暑い毎日が続く。へんろには午前中と夕方のちょっと涼しい時があるだけ。昼前、サイクリングをしている人がある。その人が休憩を取っている。私も休憩を取った。関東から四国へ来たそうな。彼は仕事は建設関係だったが、会社がつぶれちゃったそうだ。

いい機会だと、旅行を思い立った。いろいろ話すうちに、「今、もう(旅行を)止めようかと、思ってたけど、続けることにしました。写真を撮らせてくださいね」「はっきりしました。ありがとうございました」と言って別れた。

 

また歩いていて、私は(いつでも脳出血をやった歩き方で歩いていくのであるが)家の前で通りかかると、じっとそれを見ていた婦人が「ちょっと、寄って行きませんか」と言った。お茶を持ってきて、「自分も脳梗塞です」と言われた。旦那は入院したそうだ。「猫と私(婦人)とで暮らしています。リハビリと言っても、対象がないので、だめなんです」と、その婦人は言った。私は、「しかし、なんでもリハビリ、なんでも訓練になるんです。歩くでも、食事でも、そして、ちょっとしたことでも」と答えた。明日、いよいよ足摺岬に立つ。

 

6月22日
ここは、おじいさん、おばあさんと2人で民宿をやってる。四国はそういう、とこが多い。また、手を振りながらおばあさんたちと別れをいい、そこを出発。あと足摺岬まで13kmほどある。きょうはとにかく、そこまで行きたい。ちょっと無理だとしても、バスを使ってでも、辿り着きたかった。
急に、空が曇ってきた。風が出て来た。これは「やばい」、バスに乗ろう。

 

そうしてやっと最先端の足摺岬に着き、金剛福寺に札所を納めに行った。
その時、私は「30年前に、お寺の奥さんにお接待を受けたものです。ただ、その時のお礼が言いたいだけなんです」と、お寺の納経所で聞いて見た。納経所の人は「最近、奥さんはあまり出てこないのです。みんなに会わないそうです」と言われた。私は、「それは残念です」と言った。
 

さて、私の泊まるところ。ぽつぽつ雨が降りだした。ちょっとした森を抜けると、急に、風が吹き出した。片方は海の横で、ビュービューと生きたここちもしなかった。立っていられなかった。片方の足は、まだ力が出ないので、吹き飛ばされそうになる。しかし、何軒か携帯電話してみたが、みんな、どこも締まってた。

 

風はさらに強くなり、吹きだしたにもかかわらわず、通りかかった男の人に「連れて行ってください。風が吹いて動けないのです」と頼んだ。男の人は「ちょっと、待っててください。車を持って来るから」と言って車を取って来た。ようやく命は助かって民宿を探した。一軒だけ民宿が開いていた。そこに泊まった。ふー。


6月23日
♪海は荒~海~♪本当に、風が吹くと、ぱっと、海が荒れる。外海は荒れるが内海は、さほど荒れてはいない。内地へと少しずつ陸地が入ってくる。足摺岬を4時ころまで、歩をすすめ、ここらで、いいさ、バス停があったので、ちょうど時間もいいので、バスに乗り、土佐清水まで、足をのばした。


6月24日
土佐清水から、朝、出ようとするが、トイレがうまく出ない。(トイレが上手く調整できない)しばらく待って見よう。その間、床屋でも行って来よう。10時になっても出ない、出かけよう。
 

4時間か5時間、歩いた時、竜串の海辺の傍を歩いていた時、それは海辺の洗濯板というのがあるが(これに良く似た海辺に拡がっているのが 宮崎県にもある)その上を風が強く吹きだした時だった。「あぁ、また、風が吹きだした。もう、この風には、耐えられぬ」民宿の人に、携帯電話を掛ける、来てもらおう。私は、その場に座り込み、電話をかけた。

 

しかし、今、人手が足りなくて、すぐ来そうにない。「助けて!」そして、30メートルくらいの分を、なんとか渡らないと。なんとか、渡ってしまうと、そこには防風がしてあり、それは風は大したことはない。これは、なんだったのか。危ないものは、30メートルだけで、一生懸命たどり着いたら、あとは静かなものだった。

 

6月25日
朝、竜串の海岸に海洋館があった。それから海底館があった。ここは水族館が海の中に出来ている。昔も来たことがあるぞ。
もう一度、ここを探検しよう。しかし、ここは弘法大師が立ち寄ったのは知らなかった。室戸で修行を終えた時、ここを通り、竜串の海岸に奇岩などのあるのを「見残し」と付けたと言う。
 

私は切符を売る女の人に、「きょうは行けるんだ、嬉しくてたまらないんだ」その海底館までは、500メートル、らせん階段を海底まで、40メートル、それが行けたんだ。

その途中に、弘法大師の「見残し」というところがある。
今日の民宿のおばさんからは「(大師さまは)信じるものは、絶対、なにをおいても信じます」と言う言葉をもらった。


6月26日
海に面した、道路に出て歩き始めた。しばらく行くと、またトンネルがやって来た。700メートルくらいの(前のようには、長くなく)トンネルだった。この前のアベックとは今日、電話をした。海に面した吾妻屋で落ち合う約束をしてた。

 

しかし、40分を過ぎても、音沙汰がない。行くか!歩き始めた。ここはまだまだ岬の先端部。荒れる時は恐いだろうな、と思いながら来た。そこへ遅れ馳せながらアベックが来た。車に乗り込んだ。ここは宿屋などは無いので、それも、足摺岬に近いよりも、少しでも宿毛の近くにある方がよいと思った。今日は、アベックも来たし、一日、休憩とすることにしよう。

 

野外劇場を借りたような公園で、私達はそこで、身体のマッサージをしてもらい、それをしてもらいながら、いろんな話をした。それから、その話しの中で出た女房のよく行ってたという禅宗の寺で、行きたくなった。もしかしたら、泊めてくれるかもしれない。甘い希望をもって、しかし、禅宗の法師さんは、なんか、元気がなかった。C型肝炎だということだった。坊さんは女房の人と話がしたかったに相違ない。
 

 そういうことなので泊まることをあきらめ、2人(アベック)からは、たくさん学んだ。しかし、メモを取るのを忘れたが、一つだけ、覚えていることがある。〝ありがとう〟という言葉だ。たとえば、病気になってから、気がつくために、病気にしてくれて、知らせてくれる、自分に〝ありがとう〟。自分で自分を愛する。自分を信じて、自分を好きになること。

 

6月27日
夕べ、泊まり賃は安かった。歩き始めた。道路の修理をやっていた。おじさんが、私が通るまで、ずっと、私に着いて来た。へんろがずっと安全に通るまでを見ているような気がした。今日は13km歩いた。疲れてしまった。明日は、39番まで行かなくちゃならない。