ホスピス旅日記’97 ⑦

◆患者さんのこと◆
これまでに出会った患者さんの中で印象に残っている方について、今回ももう少し書いてみようと思います。それにしてもホスピスのスタッフと一緒に患者さんを訪ねると、ほとんどの患者さんは外国人で見ず知らずの私を快く迎えてくれました。
時には少し気難しい方もおられますが、そういう方は非常に稀でした。これは一般的なアメリカ人の気質なのか、ホスピスの患者さんは心が深くなって相手を受け人れて下さるのかは、よく分かりませんが私にとっては意外な喜びでした。
ある方などは別れ際に「よく来てくれた、my friend 。また来てくれよな」と言って、アメリカ式のあいさつで抱き合って別れをします。日本に「一期一会」という言葉がありますが、会う時間が短いからそれだけ 付き合いが浅いとは限らないと思います。その短い時間の間に、心と、そしてまたその状態に依って深いつながりを持つことも可能なのではないかと思いまし た。
◆メアリーのこと◆
患者さんにメアリーという人がいました。ある看護士について私は度々、その方を訪問することができました。
彼女はかつてシアトルフィルハーモニーの指揮者でした。指揮者として世界中を旅した経験もありました。これはシアトルでは最も広く読まれているシアトル・ タイムスの一面に載ったものです。「どう死に対処するか、それは死にゆく人が医師に教えることができる」として、彼女がワシントン州立大学の医学生を講堂 に集めて講義を行なったという記事です。








私もたびたび、この自宅をナースと共に訪れた。
写真に写っている患者さんのベッドの奥のソファーによく座っていた。窓の向こうには太平洋が広がっていた。





















これは彼女の家でありプロビデンスホスピスのボランティアも一緒に写っています。アメリカではこういうことが新聞の一面に載っても少しも違和感がありませ ん。彼女は膵臓癌でした。病状が進んで彼女がホスピスケアを受けることを決意した時、彼女がいつもかかっている医師、つまり彼女の専属の医師がそれに反対 しました。「ホスピスへ行くと気力が無くなるからやめろ」と言うのです。彼女は「死というのは非常に個人的なことだ。医者が患者にどういう風に死ぬか教え ることはばかげている」といって、その医師をクビにしてしまいました。メアリーはピュージェット湾とダウンタウンが見渡せる閑静な住宅地に住んでいます。 そして息子のジム(仮名)を中心にした、家族のケア体制の中で最期の日々を過ごしていました。

◇  ◇  ◇  ◇

ナースと私とが訪ねていくとバッと家族が集まります。そして前回訪ねてからの経過なり、状態の変化なりを家族がナースに話し、その対策が皆で話し合われます。24時間いつでも誰かが患者の側にいるようにと息子のジムが一週問の計画を表にして作っています。
ある時こんなことがありました。彼女には友人、知人がたくさんいて、常にだれかが彼女を訪問しているという具合でしたが、そういうこともあって、彼女はポータブルトイレをベッド脇で使うことを非常に嫌っていました。
この頃は体に浮腫(血液の循環が悪くなるために足や背中など体の下になった部分に水が溜まること)が出ていましたが、それでも家族から介助して貰いながら トイレまで一生懸命行っていました。トイレに行くことは本人の希望であるので、周りの人も懸命にそれを支えました。ある夜のこと、介助者が一人の時、とう とうトイレの入り口で介助者と共に転倒してしまいました。
それで本人もトイレに行くことが難しいことを悟り、どうしたらいいかをみんなで話し合いました。そしてこういう風にすることにしました。お客さんが来てい る時は、ポータブルトイレを使う間、お客さんに別の部屋に行っていてもらう。ベッドの周りには簡単なカーテンを天井からつける。トイレ使用中は音楽をかけ て少しボリユームを高くする。本人もそれならということで了解し、そうすることにしました。
それから一週問後、メアリーの状態は急速に落ち、まもなく安らかなうちに亡くなりました。
私はジムを始めとしたこの家族の患者への看護や話し合いを見ていてあることを思えて仕方ありませんでした。それは家族とホスピスのスタッフとで死にゆくための準備をしているというより、何か「生まれるため」の準備をしているのではないかということでした。

先月書きましたホスピスの原則に、この患者さんを通して教えられることを付け加えると、
◎最後のカギ(つまり決定権)はいつも患者が持っているということ。

ということになると思います。もちろんホスピスの原則としては他にも、病気だけを見ずにその人全体として見ることとかいろいろありますが、今後、機会があればそのことについて書きたいと思っています。

◆ナンシーのこと◆
ホスピスの患者さんの中には時々、非常に澄んだ感じの透明感さえ感じさせる人がいます。
先月にご紹介したアンもそういう人でしたが、ナンシー(仮名)もそういう方でした。ベッドの横に座りその笑顔を見ていると、なにか青く澄んだ泉を見ている ような感じでした。それはシシリー・ソンダースがセント・クリストファーを設立する前にセント・ジョセフ・ホスピスに送った手紙の中にある次のような一節 に通じているのではないかと思いました。「生きていく上での面倒なことがなくなるにつれ、患者はとても天真らんまんに、情愛を込めて私たちと交わり・・・ あたかも、すべての人生の疑間への回答が、とても信じられないくらいすっきりとして、あらゆる苦痛が徹底的に性質を変えられたかのようです。このような喜 びとの触れ合いは、どのようなものであれ、私たちの感情を高揚させずにはおきません」
ある時彼女を訪ねると、申し分けなさそうに「ごめんなさいね。今、鎮痛薬をのんだばかりなので目を開けていられなくて、あなたはナースのジャネットと一緒に働いているんでしょ、また会えますよね」と言いながら眠りに落ちました。
こういう患者さんはこちらがかえって慰めを受けるようで、何度も訪ねたくなるものです。身体は日々に弱っているけれど、精神の方は日々に澄んで光さえ持つようになるかのようでした。

◆患者さんの家族のこと◆
患者さんの家族についても少し書いてみます。ある南部から来た黒人のおばあさん。もう年は85才になりますが、末期癌の90才のお姉さんを介護していま す。2人暮しで彼女自身も家の中で歩行器を使って移動しています。彼女は「若い時には苦労したよ、人種差別が南部ではひどかったからね」と言います。でも 彼女は人と話をすることがとても好きだという。「私はね、姉が死んだらね、ホスピスのボランティアをしたいよ」と話しています。私はこうして歩行器を使い ながら生活している人が、その人の持っている特性、つまり「人と話をするのが好き」ということで、社会に貢献し、本人自身もそのことによって生きがいを得 ることはすばらしいことだと思いました。これこそが市民がつくり出していくホスピス運動だと思いました。

私のボランテイアの受け持ちの患者さんは脳梗塞の発作を起こした方でしたが、ボランティアに行き始めた頃は食事も自分で取れず、トイレは完全に介助が必要 な状態でした。しかし毎週行くたびに状態が良くなっていきました。本人もできるだけ自分でしようと努力していました。奥さんのジニー(仮名)の24時間の 介護の甲斐もあって、手を添えると何とかトイレまで歩いていけるようになり、食事も自分で取れるようになりました。それで先月、ホスピスからいわゆる退院 (?)ということになりました。
ここで奥さんのジニーのことについて書きたいと思います。このお二人には子どもさんが4人あって、そのうちの2人が腎臓病で透析(腎臓が充分機能しないた めに、人工的に血液を体外に取り出して老廃物を除去し再び体内に還すこと。定期的にこれを行なわなければ死を招く)を受けておりました。
ジニー達は70代ですから、それはもう35年も前のことになります。当時は今のように透析機はコンパクトではなく、相当大きなものを使っていたそうです。 ジニーはごく一般的なアメリカ女性といった感じの人で、オープンで、愛情豊かな人です。家は特に豊かではありませんでした。
ジニーは子どもたちの命がそう長くはないことを知っていました。命のあるうちに、子どもたちにできるだけ楽しい思いをさせたいという気持ちから、夏の休暇 の時、大きな透析機をトレーラーに乗せ、キャンピングカーを引っぱってカナディアンロッキーまで家族そろって出かけました。キャンピングカーはアメリカで は特に豊かな人だけが持っている訳ではありません。
ただ透析機も持って旅行に行くということは当時はありえないことと言ってもいいことでした。旅行から帰って、子どもたちを病院へ連れていった時、一人の ナースが「休暇はどうでした?」とジニーに聞きました。「ええ、カナディアンロッキー行ってきたのよ。すばらしかったわ」とジニーが答えました。ナースは 「えーっ?その間、この子たちはどうしたの?」とけげんそうに尋ねました。ジニーは「一緒に行ったのよー」と答えました。「えーっ!」とナースはいったき り言葉もありませんでした。これからも分かるように、その当時は信じられないくらいのことだったのです。ジニーは言います。「透析機を持ってこうして旅行 することは今では当たり前のことになっているけど、それはこのシアトルから、ここから始まったのよ。シアトルから世界中に広がったのよ」と言います。ジ ニーは別に特別な人でも何でもありません、ただ少し勇気があったのだと思います。
できたばかりのスペースニードル(36年前、万国博で創られた美しいタワー)に記念に子どもたちを食事に連れて行きました。子どもたちはその後、亡くなりました。

◆アメリカのダイナミズム◆
アメリカのすごさは、こうしたジニーのように普通の人が、少しだけ勇気を持ち、それぞれの立場でやれることに挑戦していることではないかと思います。
85才の歩行器を使うおばあさんがホスピスのボランティアをしたいと言ったり、以前にも書いたように、医学生が大学にホスピス講座を導入しようとしたり、 死にゆく人が医者に講義したり、ある国のように学生だから何もできないのじゃない、年寄だから何もできないのじゃない、死にゆく人だから無用なのじゃな い。小さなことでもみんなが何かをやっていく、その小さな力が組み合わさって社会全体として大きな力となり社会を変えていく力となる、アメリカのダイナミ ズムはそのようなところにあると思います。

◆スポケーンを訪ねて◆
アメリカを発つ前に一度は訪ねたいと思っていたスポケーンをようやく8月の初めに訪ねました。スポケーンはシアトルから東にカスケード山脈をへだてて飛行 機で約50分、または汽車で約8時間かかるところにあります。スポケーンは私たちにとって初めてホスピスに出会ったところだと言えますし、私たちにとって は原点のような気がします。
3年前と4年前に訪問した時、通訳をかって出ていただいた神戸育ちのクリシュナ(仮名)さんや、お世話になった精神科医の岡部(仮名)Dr.にもまたお会 いすることができました。当時、ボランティアをされていたクリシュナさんは、今ではりっぱにソーシャルワーカーとして勤めておられ、時の流れを感じまし た。
岡部Dr.にはお宅に泊めていただき、湖で釣ってこられたサーモンと御飯という簡単な食事をいただきながら、近くのスノーコールミー産のワインで私たちは再会を祝しました。
その新鮮なサーモンの深みのある味がなんとも言えずおいしいこと、庭からミントの葉っぱなどをちぎって来てサラダにしました。シンプルだけどこれほどの賛沢はないなと思いました。
ではまた