ホスピス旅日記’97 ⑧

◆アメリカを振り返る◆
この便りが皆さんのお手元に届く頃、私はもうアメリカを発ち、ニューヨークを通り、ヨーロッパを回って日本に帰り着いている頃かも知れません。しかしなが ら、私のアメリカ滞在のひとつのまとめとして、自分自身の振り返りとしても、 私の触れたアメリカについて書いてみようと思います。
「群盲象を評す」という言葉があります。この言葉の意味は、次のような話しからきていると思います。インドかどこかの話しだったと思いますが・・・
あるところに数人の目の見えない人がいた(これは精神的に目が見えない人を意味すると思う)。その人たちがあるところで象に出会い、その身体に触った。一 人は象の耳に、もう一人は象の尻尾にそしてもう一人は足に。それからその盲人たちは村へ帰ってみんなに象とはこんな動物だったと伝えた。
耳に触った人は「それはうちわのように平たくてパタパタ動くものだった」尻尾に触った人は「それはまるで箒(ほうき)のように先っぽに毛がついていた」足に触った人は「それはまるで太い柱のようだった」と。人々はそれはいったいどんな動物なのか訳がわからなくなった。
アメリカのことを伝えようとすることも、あるいはそれと同じような結果になることを恐れます。アメリカに行った人でも、そのひとりひとり出会ったものが違 い、その出会ったものによってまったく違った印象を持つだろうからです。例えば差別のことにしても、治安のことにしても同じことが言えます。ひどい差別的 なことを言われる体験をすれば、アメリカっていうのはひどい差別があると思うでしょうし、友好的な人ばかりにあった人はアメリカ人はとてもフレンドリーだ と思うでしょう。それは滞在が長くても短くても同じことが言えると思います。その人の印象を伝えていく結果になるからです。
さて、そういうことを認識した上で私の見たアメリカと印象とを語っていきたいと思います。

◆一人から始まるということ◆
先月も書きましたが、8月始めに同じくワシントン州の一都市スポケーンを訪ねた時のことです。3年前と4年前に訪ねていますので、多くの懐かしい顔があり ました。その中で以前来た時に働きながら看護学校に通っている男性の看護助手の方がおりました。彼は髭をはやしたがっしりした体格の人でしたがやさしそう な人でした。今度も「やあ、久しぶりだな!」と言って握手をし、その後のことについて話しました。
別れ際に「物事は一人から変わっていくんだから、(日本に帰っても)がんばってくれよな」と言いました。
思えばこの言葉はアメリカでたくさんの人から聞いたように思います。アメリカの中では、この「物事は一人から変わっていく」という考え方が、一般の中に行 き渡っているように思います。日本ではさしずめこういう時、何と言うだろうと考えましたが、「ひとりじゃ無理だよな」という言葉が思い浮かびました。
しかし、アメリカのこういう考え方が次々に新しいものを生み出し、非常に斬新なことでもまずアメリカ社会に受け入れられ、それが世界に広がって行き、いつ か世界の常識になっているという現象を生んでいるのだと思います。これが「フロンティア精神」という言葉の意味だろうと思います。

◇  ◇   ◇

この訪問の時に私たちが勉強会にも使っているホスピス・オブ・スポケーンのボランティア・マニュアルを持参しました。これは神戸の方が、その全巻を翻訳し 今では全国にも流布し、かなりりっぱなものなのですが、ホスピスの方に見せましたところ、「これは古いもので、もう3、4年も前のものだから恥ずかしいん です。あれからもずっとみんなで内容を検討し、ずいぶん改良を加えて来ましたから今ではもっといいものになっているんです。」と言われました。
私は日本でこんなふうに有効に使っているんだということをお見せしようというくらいの気持ちでわざわざ翻訳本を持参したのですけれど、この3,4年で「古 い」というのには驚いてしまいました。日本では車や道具は3,4年でポンポン取り替え捨ててしまうし、家や道路も次々に壊してしまうのにこういうことにな ると、外国のものを特に西洋のものを翻訳し、それを10年でも20年でも「大事に」使ってしまう傾向があります。西洋のものになるとほとんど無批判になっ たり、その上、それを日本の風土に適合したものに変えようという努力さえ怠りがちです。
例えば看護研修で外国へ行ったりということもよく行われていますが、外国の病院へ行って、施設とかシステムとかで何かいいところはなかったかと見てきて、 そして、日本に帰ってきてその部分だけをそのまま真似してしまうということをしてしまいます。いつしか外国のいいところだけのつぎはぎのものができてし まって全体としてアンバランスなものになってしまうのではないかと思います。
そういう病院の施設やなにかということより、大事なのは根本の考え方ではないかと思うのです。いくら「近代的」でこぎれいな施設であったとしても、患者の 意志が尊重されない医療であったり、いのちや死についての考え方があいまいであったりするならば、それはあまりいい医療ではないと言うことができると思い ます。
 またスポケーンでは特に偉い「先生」がこのりっぱなマニュアルを作ったのではない、普通のスタッフであるソーシャルワーカーやナースやボランティア・ コーディネーターが真剣に知恵を出し合って作り上げたものです。日本ではこういうことができているだろうか、考えさせられました










ホスピスオフィスにある一部屋
ここでスタッフは心の悲しみをいやす。













◆図書館の制度◆
話しは変わりますが、アメリカ滞在中よく図書館へ行ったものでした。岡村昭彦という人が書いた「ホスピスへの遠い道」という本がありますが、その中にアメリカの図書館のことについて書いた部分があります。彼はこのように書いていました。
「アメリカに行ったら図書館の中に入るのにだれにも気兼ねはいらない。‥もともと知識はパブリックなものだから、世界のどの国から来た人間にも平等なチャ ンスが与えられるのは当然のことだ。‥司書が私に尋ねるのは、私がどんな資料を探し求めているか、ということだけである」
シアトルの図書館はまったくその通りでした。例えば、私のような外国人であっても簡単に図書カードをつくることができますし、どんな本でもCDでも、ビデ オでも1ヵ月くらい自由に借りることができます。私が探している本を司書の方に尋ねると、いつでもコンピューターを使い一生懸命探してくれました。国籍と かアメリカにどれくらい滞在しているのかもまったく関係ないといった風でした。まさに知識というものは公共のもので、ただ、知識を得たいかどうかだけが問 題となるという感じでした。
シアトル市内の図書館のひとつ
シアトルには中央図書館をはじめ20くらいの図書館が各区にありますが、多くの人が来ていて、読書する人、コンピューターで検索をする人、インターネット をする人(アメリカではインターネットが一般に非常に普及している)で非常な活気を感じました。知識欲が伝わって来るようでした。
それにその20くらいの図書館はコンピューターでつないであり、どこにいてもシアトル中の本を検索することができます。その図書館の間を毎日、車が走って いて、検索をした図書を少なくとも 2,3日内に近くの図書館に届けてくれるようになっています。またもし自宅にコンピューターを持っている場合には、自宅で図書館のコンピューターとつなぐ ことができるために、自宅にいながら自分の読みたい本を探し、2,3日内に近くの図書館に取りに行けばいいというシステムになっています。
こういうことを通しても知識というものを非常に大事にしていることを感じるし、なにより驚くことは日本のように図書館に行けば若い人が多いということでは ないことです。老年から子どもまでいろんな年代の人が来ており、みんなが熱心に本を読んでいる様は、これがアメリカの文化を支えているのかもしれないとい うことを感じさせました。

◆ アメリカの歴史から◆
ずっとアメリカのいい面を多く書いてきたようにおもいますけれど、だからといってアメリカには悪い面がないということではもちろんありません。ただアメリ カの悪い面をあげつらってもあまり意味がないと思いましたし、自分たちが学ぶべきことを学べればよいというつもりで書いてきました。しかしここでもう少し 本質的なところへ、もう少し暗い面へも話しを進めてみたいと思います。

   ◇   ◇   ◇

少し、アメリカの歴史をひもといてみますと、本来、アメリカという国はヨーロッパからやってきた白人たちが東海岸に到着し、原住民であるインディアン(ネ イティブ・アメリカン)を武力で滅ぼし、征服しながらつくって行きました。建国の過程で労働力が必要だったので、アフリカに行って、そこに住む猟師や百姓 である黒人たちを連れてきて(さらってきて)奴隷にしました。それが基本的なアメリカの国家の成り立ちであると思われます。非常に単純な言い方をしますと 現在存在している人種問題や多くの問題がそこから生じてきているように思います。
 ご存じのようにアメリカは今からわずか200年くらい前の1776年7月4日に独立しました。
それから約80年後、奴隷問題等を契機として市民革命である南北戦争が起こってきました。北軍率いるリンカーンの下に1863年奴隷解放宣言は出されましたが、奴隷でこそなくなったとはいえ、厳しい差別がその後も長く続きました。
1865年に南北戦争は終結しましたが、聞くところによると、その後矛先を失った武力はインディアン(ネイティブ・アメリカン)の方に全面的に向けられ、 居留地に入ることを拒否するインディアン(ネイティブ・アメリカン)たちを滅ぼしていったと聞いたことがあります。ちなみにシアトル首長がリザベーション といわれる居留地に入ることを決めたのは1855年のことでした。
 現在は、少数になってしまったネイティブ・アメリカンたちの中に滅びそうな文化を掘り起こし、復活させようという動きがあります。埋もれている言語を再 び使おうとし、文字を考案し、工芸品などの製法を復活させようとしています。基金をつくってネイティブ・アメリカンのための大学もつくっています。私もこ の夏シアトルの東、オリンピック半島の最北端にある居留地に行ったことがありますが、潮風が吹きすさぶ荒涼とした風景が印象に残りました。

 時代は飛んで1960年代に公民権運動が起こってきました。それと同時にベトナム戦争も始まりました。変革の時代であったと同時にアメリカにとっては苦しみの時代ではなかったかと思います。ある友人の一人が言っていました。あれはひどい時代だった、と。
 トム・クルーズ主演の「7月4日に生まれて」という映画があります。ごく普通の陽気なアメリカ人がベトナム戦争へ行き、戦場で子どもまでも殺してしまう 悲惨な場面に出会い、その後自分も負傷して下半身マヒとなりました。帰国してみると国は反戦運動で揺れ、みんなから白い目で見られ狂気のようになって彼は 苦しむことになります。最後には苦しみを乗り越えて彼自身も戦争に反対していくという話しです。私はアメリカに来てある人と友達になりました。その人がベ トナムに行ったごく親しい友人のことを話してくれました。仮にその友人の名をサムとしておきます。
 サムは非常にやさしい性格でした。ベトナム戦争へ行って、帰って来るとそのやさしい性格は消えて、ちょっとした時に非常に興奮し、狂気に陥ることがありました。とうとう彼はある夜、高速道路の上を歩いて、そして車に轢かれて死にました。
彼が死んだのは、まだ7,8年前のことに過ぎません。彼は長い間ベトナム戦争を引きずってそして死んだと言えます。しかし、多くのアメリカ人にとってベト ナム戦争がそのように大きな傷跡として残っています。あるアメリカ人から聞いたのですが、近年の湾岸戦争で爆撃が成功したとき、大多数のアメリカ人は 「ワー!良くやった!」と言って歓声を挙げたといいます。政治体制が違うとはいえ、10万人もの人が死に、その爆弾やミサイルの下には、私たちと同じよう な市民が生きていたと思えば、そう単純には喜べないような気がするのです。
 しかしその同じアメリカ人が1960年代の公民権運動を起こし、1970年代からのホスピスの運動と障害者の運動の大きな流れを創ってきました。この 30余年間はアメリカの社会が大きく変化した時代と言えるでしょう。差別も昔と比べると緩和され、医療体制も大きく変わりました。
 アメリカ人自身大きな矛盾を抱えながら、そして悩みながら、よりよい社会をめざしているように思えます。私たちは単にアメリカが素晴らしいからといって 真似るのではなく、私たちと同様に多くの問題を持ち、そして模索しながら新しい社会を創造しつつあるのだということを知り、友人として学び合っていけたら と思っています。

   ◇    ◇    ◇

アメリカ滞在中に数え切れない程のアメリカ人と会い、話していると、人間は皆一緒だなあと思うようになりました。ふっと相手がアメリカ人ということをまっ たく忘れてしまうことが時々ありました。自分と同じ喜びもすれば悲しみもする、欲もあれば、無欲なやさしい心も持っています。ただ、体が少し大きいだけ、 髪の色のちょっと違うだけのように思えます。

 アメリカの旅を終えて、結局、その旅の目標はしだいに「ホスピス」というところに集約していった様に思います。「アメリカの旅」というよりは「ホスピスの旅」と言った方がふさわしいかもしれません。
私の旅はこれからヨーロッパへ向かいますが、ヨーロッパへ入ってからもホスピスの旅は続きそうです。スイスで古い友人を訪ね、フランスのリヨン、パリではホスピスの歴史的な場所をおとずれ、アムステルダムで新しい友人に会い、ロンドンで「国際ホスピス会議」に参加します。
 
つづく