ホスピス旅日記’97 ⑭

◆大英博物館へ◆

これまで私は新しい知らない街へ行くと、たいていその街の美術館か博物館を訪ねることが多かった。それは、私にしてみると情報収集の意味もある。私はあま りガイドブックとか見るのが得意でないし、それにたいてい思い立ってすぐ行くから、情報を集めるひまもない。その街へ行くとまず、駅などで美術館のありか を尋ねる。どんな街にもひとつやふたつの美術館はある。そこには時には数百年前から千年、二千年の昔の物を集めて展示されていることがある。おかげで何と なくその街の歴史のようなものが見えてくる。それからその街を歩いたりするとだんだんその街のことが分かってくる。私はこんな風にして手探りで対象を分 かって行くようなところがあるが、それと現在あるものだけを見ないで、ある時間の幅の中で物を見る方が、私により安心感を与えてくれる。
私は若い頃から、たくさん旅をしてきたので、ずいぶん美術館や博物館にも行った。日本の街々のそれや、アジアやヨーロッパのそれ。自分の気付かぬ間に、そ れらの歴史が私の中に積もっているのかも知れない。分からないながらに、ともかく見たということは、やはり私の中に入り込んで来ているのだろう。
ドイツのケルンや、イタリアのフローレンスなどの小さな数々の美術館。大きなところでは、インドのニューデリーの国立博物館、アテネ国立博物館、ヴァチカン美術館、フランスではルーブル美術館、etc.etc.・・。
しかしまだ、イギリスの大英博物館に行ったことがなかった。
ロンドンのこの大英博物館に来て見て私は驚いた。この大英博物館ほど幅広く世界中から、あらゆる時代を通して集めてあるところはほかになかった。さすが大 英帝国である。世界を支配していた頃、世界中から略奪してきたものをここに集めてあるのだろうが、おかげで世界の歴史が目のあたりに、一堂に見ることがで きる。
数多くの展示の部屋をめぐっていると、中国、インド、イスラム、ビザンティン、西ヨーロッパなど、世界の文化がいくつかの場所で発祥して、それらひとつひ とつが、少しづつ大きな流れとなり、そして互いに絡まり合い、影響し合って、大きなうねりとなって人類の歴史を形づくられて行くさまが感じられてくる。そ れから特にアジアの地域では、数限りない仏陀の像が彫られている。見れども見れども、いろんな顔のいろんなスタイルの仏陀の像が続く。ヨーロッパでは数限 りないキリストの像が。これらの像を見ていると、人類の綿々と続く祈りのようなものが伝わって来て、圧倒される思いだった。


     24時間サービスと書かれたセント・トーマス病院の壁


◆セント・トーマス病院とナイチンゲール博物館◆

さて、大英博物館から、今度はテームズ川沿いにあるセント・トーマス病院に向かった。ロンドンの有名な時計台ビッグ・ベンのあるところからウエ
ストミンスター橋を渡ると右手にセント・トーマス病院がある。皆さんはこの名前をご存じだろうか?そこはナイチンゲールが世界で初めて看護学校を創ったところだ。ここの病院の脇にナイチンゲール博物館もできている。
19世紀の昔のままの建物の隣には新しい建物も建っている。その白い壁には大きな文字で、「私たちは24時間、地域にサービスしています」と書かれてい る。私はまず病院の中に入って行った。イギリスらしい重厚な造り、廊下の真ん中に、ナイチンゲールが看護学校を創る時に庇護したというビクトリア女王の大 理石の像がデンと座っている。フローレンス病棟とかビクトリア病棟とか名前が付けられている。青い制服のナースたちが廊下を歩いていく。

それから私は、受け付けの男性にナイチンゲール博物館の場所を尋ねた。小じんまりした博物館であったが、中にはナイチンゲールがクリミヤ戦争のスクタリの 病院で着ていた看護服や看護学校を建てるために基金の設立を訴えた新聞記事、ナイチンゲールの数多くの手紙等が置かれてあった。彼女の半生は病弱で、ベッ ドの上でこれらの膨大な手紙を書くことによって、その事業を達成したのだった。
ところで、ナイチンゲールがロンドンに看護学校を創ったのが1860年。
この1860年という年は、看護にとって、特別大きな展開を世界にもたらした年のような気がする。アンリ・デュナンがナイチンゲールの1854年のクリミ ヤの活躍に影響を受けて国際赤十字を創ったのはわずかこの4年後、1864年。私がボランティアをしたシアトルのプロビデンスホスピスの母体であるセン ト・ジョゼフ病院はすべての人に平等にケアをしようという理念のもとに創られたが、それが出来たのも同じ1860年だった。そしてその頃、日本ではどうか というと、勝海舟が咸臨丸で太平洋を越えて、アメリカ西海岸に渡った年である。
こうして地球をぐるっとひと周りして考えてみると、直接的には関係のない出来事でも、なにかしら内側でつながっているのではないかという気がしてくる。
大きな歴史の展開が、世界中の多くの人の努力によつて動かされていくように感じられる。

◆アイルランドへ◆

ロンドンで割に長く滞在したが、最後の目的地アイルランドにいく日が来た。
アイルランドは緑の国という。
「緑」が国の象徴になっている。シアトルにいたころ、3月のある日には、「緑の日」という祝日があった。これは日本の「緑の日」とは全く違った意味があ る。アメリカにはアイルランド系のアメリカ人が実に多い。ホスピスの患者さんにもスタッフの中にも、アイルランド系の人がたくさんいた。これはアイルラン ド系の人たちの祝日だった。休日にはならないが、この日にはアイルランド系であるとないとにかかわらず、自分の持っている物の中で、なにか緑色の物を身に 着けて行くという習慣がある。その日は私もシアトルで緑色のセーターを着て出かけたものだった。街では、たくさんの人たちが、緑色の物を身に着けていたこ とを思い出す。

出発の朝、私は荷物を持って食堂に降りて行った。10時過ぎの飛行機に乗る予定だった。
同じB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)に一人の若い日本人が泊まっていた。よく朝の食堂でいっしょになるので、時々、話しをしていた。まだ 18才の女の子で今年、関西の大学に入ったばかり、彼女は自分のことを話す。「イギリスに旅行に行きたい」と親に言ったら、行ってはいけないと言われた。 それでも、チケットだけ買って、残りの5万円だけ持って、ともかくイギリスに来た。英語もほとんどしゃべれないけど、2週間ほどスコットランドやウエール ズの方へ貧乏旅行をした。今、ロンドンに戻ってきてもうすぐ日本に帰るつもり。いろんな国から来た人にも出会った。いろんな体験もした。でも今は来て良 かったと思う。日本の大学へ入学して何も目的がなくキヤンパスを歩いたけれど、ここへ来て目的を見つけることが出来た。日本に帰ったら4年間、自分の学科 と英語をしっかり勉強して、イギリスの大学院に来ようと思う。目的もなく4年間、大学へ通うことを考えたら、この2週間は自分にとってほんとに大きかっ た。4年間あれば、英語を勉強しても十分間に合うでしょう。など話してくれた。
それでもやっぱり、一人で外国へ来て、親のことなどが心配になったり、不安になったりするんだろう。もっと話したいらしかった。私は飛行機の時間が気になったけれど、ぎりぎりまで話しを聞くことにした。
日本の大学に行っても、なかなか目
的を見い出すのはむつかしいのではないかと私も思う。多くの学生が目的もなく、若い時代を無為にしてしまうのは悲しいことだが、こうして外国に来なけれ ば、目的が見つからないというのは日本の大学の現状を考えれば情けなくなる。しかしこういう子たちが数は少ないけれどいるから、日本の将来にもかすかに希 望が持てるような気がする。

その子は近くの地下鉄の駅まで荷物を持って送って来てくれた。飛行機のチェックインまでまだ1時間半ほど時間があるので、十分間に合うだろうと思っていた が、地下鉄からバスに乗り換え、空港に急いで行くと、予想外に道路がずいぶん混んでしまっていた。そして私はとうとう予定していたアイルランド行きの飛行 機に乗り遅れてしまった。

飛行場では荷物の上に腰掛け、3時間ほど次の便の空席を待った。運良く次の便に空席が出た。私は喜んでその飛行機に乗り込み、タ方までにはダブリンに着けそうだったのでほっとした。私の残りの日程はもうあと4日しかなかったので、もう時間のロスはできなかった。

◆ダブリン空港で◆

到着したその日はダブリンは雨模様だった。エアポートで腹がへってきたので、空港のバーにサンドイッチを食べに入った。向かいに座っている14、15才く らいのアイルランド人の気さくな少年が話しかけてきた。ベルファストから来たという。「今からお母さんと妹と3人でスペインに行くんだ。海外旅行は初めて なんだ」と、ちょっと興奮ぎみ。「アイルランドはいい国だよ。あなたもこの国が好きになると思うよ」とその少年は言った。そこへ用を足しに行っていたらし いその少年の母親と妹とが戻ってきて、私たち2人がしゃべっているのを見て、話しに加わり、私が「日本から来たんです」と言うと、満面笑みを浮かべて「よ うこそ、私たちの国へ」と言って、手を差し出した。私と初めての国アイルランドとの出会いは、そんな風にして始まった。


        ダブリンカレッジ大学の寮

◆ダブリン大学の寮で◆

まずホテルを捜すために空港の観光案内所へ行った。ちょうどダブリンではある種の医療関係のヨーロッパ会議とフットボールの試合があっているということ で、ホテルがただの1軒も空いていなかった。係の女性は何軒も電話をかけて一生懸命捜してくれたがだめだった。最後に「ああ、大学の寮だったら空いてる し、それでもいいですか?」と言った。普通のホテルに泊まるよりは、その方がよっぽどおもしろそうだし、それにずっと安い。私は喜んでそれをお願いした。
ダブリンカレッジ大学はバスで中心街のオコンネル通りから南ヘ、ワーテルロー道路の方へ下り、20分ほどバスに揺られた郊外にある。
大学構内にある寮はまだ新しくて、なかなか快適だった。学生が夏、帰省している間、開放しているらしい。考えてみるとあの岡村昭彦もダブリンではエキュメ ニカル・スクールという学校の安い寮に泊まって調査研究をしていたのだった。私の場合はホテルがいっぱいだったおかげでここに来れたけれど、ああ、こうい う感じだったんだなと分かった。
この大学でも小児医療かなにかのヨーロッパ学会が行われているようだった。構内を歩いている人々からは、ギリシャ語やフランス語が聞こえてきた。
ここに着いたのは、タ方だった。一且街に出て夕食を済ませて大学に戻った。帰りに大学の一角に夜中までやっているバーを見つけてそこに入った。
学生たちはそこでビリヤードをやったり、ギネスビールを飲んだりする。今は帰省中で少数の学生しかいなかったが、私も一パインツ(大きなコップ)のギネスを頼んだ。
明日は、ロンドンのホスピス会議の時に、オーストラリアの教授から住所を教えてもらっていたマザー・メアリー・エイケンヘッドが世界で初めて建てたハロル ド・クロスの丘の上にあるというOur Lady's Hospice(アワ・レディズ・ホスピス)に行って見るつもりだった。


          ダブリン市街
つづく