ホスピス旅日記’97 ⑯

◆ホテルに着いて◆

ホテルに着くとすぐ、私はホテルの近くにある周りを歩き回った。メアリー・エイケンヘッドの父親が通ったというシャンドン教会にまず行った。この教会はプ ロテスタント系で父親はプロテスタントであった。メアリーはカソリックなので激しい葛藤があったに違いない。その裏通りの方に行くとメアリーの育て親の家 があった。今は別の家族が住んでいるので中に入ることはできないが、壁に埋め込まれた石の標識でそれと分かる。そこから徒歩で1、2分の所にシスター・オ ブ・チャリティーとセント・ピンセントの女子修道院がある。
 道を歩いていると、乳母車を押す小さな女の子が、私のカメラが目に止まったのか写してと言わんばかりに、こちらに乳母車を向けてポーズをとった。私は ちょっとびっくりしたが、カメラをかまえてシャッターを押した。日本にも、昔こうした子どもたちがいたものだと思い、なつかしい気がした。

ポーズをとるアイルランドの少女

◆メアリー・マウント・ホスピス◆

その日は土曜日で夕方まであまり時間が残されていなかった。明日が日曜日で、その日の夜には日本に帰るために空港に行くことになっている。もう活動できる のはあと数時間だけだった。私はダブリンにシスターズ・オブ・チャリティがメアリー・エイケンヘッドの生れ故郷のコーク市にも創ったホスピス、セント・パ トリック病院にも行ってみるつもりだった。セント・パトリック病院のことを、土地の人はメアリー・マウント・ホスピスと呼ぶ。私はタクシーを呼んでもらっ てそこまで行った。
 メアリー・マウント・ホスピスはコーク市内を一望に見渡せる丘の上にあって、とても見晴らしがいい。

 私もそんなに度胸がある方ではない。初めてのところは入り口でどうしようかと一応、躊躇してしまう。でもどうしてもしなければいけないことは、どうせし なければならないから、もうあとは運を天にまかせてやってみるだけである。それに失敗したとしても後で修正がきかないほどの大した失敗ではない。それにあ の列車の中で出会ったチャリティー・オブ・アフリカのシスターは「私には何もないけれど、あなたがあなたの仕事をやっていく上でもっとも適切な人に出会え るように祈ってあげましょう。あるいはこれは何か物質をあげるより、よっぽど役にたつかも知れませんよ」と言って笑っていた。
 勇気を出して入っていった。守衛の男の人に用件を告げた。しばらくすると、にこやかに手を広げながら婦長(マトロン)が階段を降りて来たので握手をし た。 「日本から来られたんですか。看護師なんですね。じゃ、病棟内を案内しましょう」と言って、私を連れて-階、2階を案内してくれた。

 それから、「うちには在宅のホスピスケアを行なうため スタッフが5人います。今日は土曜日だけど、ちょうどその主任が出てきているので、呼びましょ う。彼女の方が、もっとあなたの知りたいこと説明できるでしょう」と言って、その主任を呼んでくれた。とてもはっきりした感じのいい人であった。名前をア ンさんといった。


◆オーストラリアのタスマニアと類似◆

  彼女は地域に出ていって、街のパブリック,ヘルス・ナースというから保健帰のことであろう、と街の医師と連携して在宅ホスピスケアを行なっている。
 「以前は医師との間で、考えが合わなくて、よくもめることもありました。しかし、近ごろはだいぶ医師も我々の考えを解ってくれて、保健婦もホスピスの考 え方を理解するようになって、うまくすすんで行くようになってきました」と、彼女は話した。私はこれを聞きながら、3年前に訪ねたオーストラリアのタスマ ニアのホスピスを連想していた。そこでも同じような話しを聞いたのだった。
 タスマニアのホスピスは公立で市が経営していた。経営主体はコークとタスマニアで違うが、この2つで似ているのは、その街の大ききだった。どちらも10 万か20万の小さな街だった。いろんな種類の人たちが連携していくこの方法を可能にしているのはこの街の大ききなのだろうか?と思ったりした。
 街自体が変わっていき、ホスピスの考え方も自然に行き渡っていくし、またしみこんで行くこうした在り方は理想的な気がした。

 病棟内の患者とも会わせてくれ、私も患者さんたちと握手をして挨拶した。ナースのアンは、また分からないことがあったらいつでも、手紙でも書いてきいてください、と言い別れた。


◆3年前のオーストラリア◆

 私たちの福岡「生と死を考える会」(今の市民ホスピス・福岡の会)では今から3年前の1995年に、シドニーにあるカリタス・クリスティ・ホスピスの日 本人スタッフである川田さんの助けも借りて、オーストラリアホスピス研修ツアーを行なった。カリタス・クリスティ・ホスピスはアイルランドのホスピスと同 じ、シスターズ・オブ・チャリティの手によってできたホスピスだった。川田きんは岡村昭彦が京都で行なっていた看護師(帰)のため 岡村ゼミの受講生でも あった。
 その時に私たちは、まだアイルランドを知らなかったが、アイルランドとのつながりをそこここに感じることができた。
 今からわずか200年ほど前の1791年にアイルランドのコークの港からシドニーの港に初めてアイルランドから数百人の囚人たちが着いた。その多くがイギリスの苛酷な植民地政策に反対した政治犯だったのである。
 シドニーの港に行くと、ここにアイルランドの囚人たちが到着したとある。今は日本からの新婚旅行客で賑わうこの大きな国も、二百年そこそこの昔に、アイ ルランドからの流刑囚がこのシドニーの港に降り立ったことからこの国の歴史が始まるのである。私はその港でまざまざとしたイメージでオーストラリアという 国の始まりを感じた。そこから私たちのツアーはリッチモンドというオーストラリア最古の街を訪ねた。その街にはオーストラリア最古の教会とか最古の石橋と かがあった。それらはすばらしく美しかった。
 それと同時にリッチモンドの監獄跡がある。現在は観光客も多数訪れるが、ここにアイルランドからの囚人が収容されていたのである。


オーストラリア最古の教会


◆リッチモンドの監獄◆
 1830年前後に造られたこの監獄には狭い独房、懲罰房もあった。私たちも中に入って見学した。今は中庭にも花が植えられ美しくしている。建物の中には 拷問の道具なども陳列されていた。懲罰房はタタミ一畳ほどの広さで、外からの明かりがほとんど入らず、地面には、両手、両足を拘束するための鎖が固定され ていた跡があった。リアルな感覚を持ってもらうための、館側の配慮なのか囚人のうめき声がテープに吹き込まれて、常に流されていた。光も入らないこの中 で、直接、地面に寝せられ手足を拘束されているのを想像すると恐ろしくなってしまった。その上、彼らはふつうの犯罪者とはちがう。イギリスのアイルランド に対する植民地政策は本当に過酷なものだった(岡村昭彦の「ホスピスへの遠い道」から参照)イギリス国教会という新教の国のイギリスはカソリック国である アイルランドの完全併合するためでカソリックの神父というだけで殺された。民族ごと根絶やしにされるような政策が取られたが、歴史上、英雄として有名なク ロムウェルがその政策のもっとも最たる遂行者だった。このような皆殺しに近い政策は後のベトナム戦争の枯葉作戦を連想させる。そういうイギリスの政策に少 しでも反対した人々が囚人としてオーストラリアに送られて来たのだった。この監獄を見ていると、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが主役を 演じたあの「パピヨン」という映画を思い出した。

リッチモンドの監獄



◆オーストラリアのホスピスの発祥◆
 1838年の12月31日にアイルランドのシスターズ・オブ・チャリティの修道女5人がはるかなアイルランドからシドニーの港に着いた。シスターズ・オブ・チャリティはメアリーエイケンヘッドが創設した修道会である。
 彼女らはこの悲惨な人々を手助けするためにメアリーエイケンヘッドの遺志を受け継いでここまでやって来た。病気になり、死に行く人たちを介護するために。
 1880年代になってから世界で2番目のホスピスがシドニーにできた。ダブリンのアワ・レディス・ホスピスが出来てから数年後で聖心(みこころ)ホスピスという。その後、シスターズ・オブ・チャリティはメルボルンに、ブリスベンにもホスピスを創った。

つづく