ホスピス旅日記’97 ⑰

◆旅の終わり◆
 次の日、昼ごろには私はコークの街を後にした。ロンドンから日本に向かう飛行機に乗るためには、その日の夜までにダブリン空港まで行かなければならなかった。
 ダブリンまでの汽車は昨日とはうって変わってたいへん混んでいた。この日はハーリングというスポーツの年に一回の大会がダブリンであるという。ハーリン グというのはホッケーのようなフットボールのようなアイルランド独特のスポーツだという。ダブリンの街はクラクションを鳴らして走る車や、バイキングの帽 子をかぶり、旗を振って歓声をあげながら歩く若者たちで熱気があった。国民的なお祭りらしかった。
 私はオコンネル通りのレストランに食事に入った。もうこの夜が7ヶ月から8ケ月続く旅の最後だった。小さいワインをひとつ注文した。
 ウェイトレスのひとりが髪の色と眼の色こそ違うけれど、鼻はそんなに高くなく、まるで日本人とおんなじ雰囲気を持っている人がいた。髪と目を塗り替えれ ばそのまま日本人になってしまうようだった。やっぱりアイルランドと日本はどこかでつながっているのかも知れないと思ったりした。
 なんだかなつかしくなって少し話しをした。彼女は給仕をしながら、にこにこして答えてくれた。自分の知ってる「ロンドンデリーの歌」のことを言うと「ああ、ダニー・ボーイね」(アイルランドの人は決して「ロンドンデリー」とは言わないのだということを思い出した)
「もう明日は帰るんです。」
「あら、残念。また来た時に寄ってくださいね。」など言って別れた。私はそれから、空港へ行き、ロンドンへ飛んで、ヒースロー空港から、日本へ向かった。




◆この旅の中で出会った人々◆
 今回の旅は、長い旅であったが、思えば数々の人と出会った。
 シアトルのホスピスのスタッフで一緒に患者を訪問させてくれたサラ、ジャネット、エド、キャロン・・。ボランティア・コーディネーターのパティとレナ。 アパートに一緒に住んだマーク。鍼灸士のスティーブ。ボランティア仲間のジョアン、エリザベス、リー、レオ・・。受け持ち患者のジョン、奥さんのジニー、 出会った数多くの患者さんアン、ナンシー、そしてメアリー。スポケーンのクリシュナ(仮名)さん、岡部(仮名)ドクター。日本からアメリカまで訪ねてくれ た仲間たち。スイスの友人たちステファン、ソフィア、ジャンナン夫妻。オランダのセシリア、ピエール、ガブリエル。ロンドンのホスピス会議で出会った 人々、パトリック・ケリー、クロアチアの看護師、オーストラリアの教授などなど。アイルランドのシスター・ヘレナ、看護師のアン、チャリティ・オブ・アフ リカのシスター・・。その他、いろいろな出来事とここに挙げきれない程の人。これらが私の旅を実に豊かなものとしてくれた。また、その間も「読んでるよ」 「楽しみにしてるよ」と言ってくださったたくさんの読者たち。本当に感謝している。
 「ホスピスの旅」と言っても、これはまだ、本当のホスピスの旅の前段階にしか過ぎない。毎月これを書かせてもらったおかげで自分の中でも少しはっきりしてきた部分もあるようだ。旅をしっぱなしだったら今のような感慨は生まれなかったことだろう。
 日本に帰国してからも、旅の中で出会った人々から手紙をいただいたり、ファックスが入ったり、Eメールが入ったりしている。もちろんこちらからも書いて いるが、忙しくてなかなか返事が間に合わない。申し訳なく思う。またこれからも彼らと会うことがあるだろう。しかしながら、これもまたネットワークの始ま りに過ぎないと思う。ようやく世界の人と出会えた。これからこれを深めていこうと思う。またこれらの人々を通じて、さらに多くの人とも出会っていきたい。



◆キュービズムのこと◆
 この「ホスピスの旅日記」を書き始めた時、私にはなぜか「キュービズム」というものが頭に浮かんでいた。
 私はあまり詳しく知っている訳ではないけれど、キュービズムというのは20世紀初頭にフランスに起こった絵画の一派で、ブラックとかピカソだとかが一時 期、手法としてもちいたものだ。物体の基本的な構造として立方体(キューブ)、円筒形などとして捉え、物体を描くときに、小さな面の一つ一つを立方体 (キューブ)として描いていくやり方である。
 それは近くで見ると小さなキューブの集まりにしか見えないが、少し離れるとひとつの物体そのものが見えてくるというしくみである。
 なぜこういうものを思い浮べたかはさだかではないが、この「ホスピスの旅」も似たような性格なのではないかと思うのである。文章の中に現われるひとつひ とつの小さなエピソードは、ひとつの完結した立方体(キューブ)である。ひとつひとつはぜんぜん関係ない話に見える。しかし、それをキュービズムのように もう一度、幾何学的に点と線とで結んでいくと、あるいは少し離れて見ると「ホスピス」という全体像が見えてきはしないかという気がする。少なくとも私の考 えている「ホスピス」とは癌の末期の方のケアの在り方ばかりではないような気がしているのである。
 なにかもっと、人類がどうあればいいのか?とか、人間の幸せはどういったものなのか?といったものと、私の「ホスピス」はつながっているような気がする。




◆岡村昭彦の写真展◆
 今(97年当時)、福岡「生と死を考える会」では、福岡の「バイオエシックス研究会」と共催で岡村昭彦の写真展を企画している。タイトルは「ベトナム戦 争からホスピスへ」と題し、岡村昭彦がベトナム戦争からビアフラ内戦を経て、バイオエシックスやホスピスに行き着いた過程を、彼の仕事を通じて知りたい、 学びたいというのが主な趣旨である。日程としては来年の4月を予定している。以前、このオアシスに書いていただいた「岡村昭彦の会」の大住敏子さんを中心 として実行委員会を組み、現在、準備を進めているところである。。
 それにしてもこの「ホスピスの旅」のもっともよいガイドブックであった「ホスピスへの遠い道」を書いた岡村昭彦とはへんな出会いである。よく分からない のに、なにか引っかかって、たどってきたが、その過程でオーストラリアへも行き、岡村ゼミに参加していたこともあるという、オーストラリアのホスピスで働 く川田さんとも会い、岡村が信州の精神病院で東洋医学を中心にしてボランティアをしていたという安曇病院に現在、医師として勤めていらっしゃる方とも偶然 お会いし、岡村とバイオエシックスについて全国行脚された時に、18年前、福岡で実行委員として関わった人たちと最近出会い、岡村が東京で「岡村昭彦と母 親の会」というのをしていた頃に、事務局をされていた大住さんが福岡へ引っ越して来られて、我々と出会ったこと。思えば、彼がいろんな方法、人々を通じて 伝達しようとしていたそのすべての道筋で受け取っているような気がするのである。自主ゼミを通して、世界史の広がりの中でホスピスを看護師たちに伝えよう としていたこと、母親が変わらなければ日本は変わらないと「岡村と母親の会」をつくったこと、精神病院でのボランティア、バイオエシックスを知らせるため の全国行脚、そのいずれの方法を通じても。これらは13年から18年の時を隔てている。その空白の時を通してかすかに伝えられたものが今我々に届いている ような気がするのである。ロマン的かも分からないが、こんな風にしてバトンは手渡されて行くように感じるのである。
 以前、私の中ではどうしてもつながらなかったホスピスとベトナム戦争、ホスピスと精神障害者のケアがこの写真展の準備をしていく中で少しづつつながり始 めているように思う。要するに綿々とつながっていた人類の正の遺産と負の遺産のことであると思う。人類が綿々と行なってきた戦争、差別、人権無視、そして いろいろな悲惨。一方で千年以上続くと思われる正の遺産としてのホスピスの運動。岡村は要するにこれから人類が向かっていくべきところを世界史を証明する ことの中で一生懸命伝えようとしていたのではないかと思うのである。
 後段が長くなってしまいました。ともかく私は今、この日本の福岡にいてホスピスボランティアやホスピスダイヤルをつくっていこうと取り組んでいるところ です。いつか「ホスピスの旅~日本編~」を書けるようになりたいと思っています。長い間、ご愛読ありがとうございました。
ではまた


フランスのリヨンのオテル・デュー(神の宿)