半世紀を越えて
―「月光」の旅 ⑤
十一月最初の日曜日、私は早朝から晩秋の山道を車で走り、鹿児島をめざした。曲がりくねった道がどこまでも続く。途中、休憩しながら訪ねる相手の家に何度も電話をかけた。だが、いっこうに出る気配がない。出かけているのだろうか。それとも…不安がよぎった。
五年前に取材をしておきながら、結局は記事にしなかった。その悔いがずっと私の胸の中でチリチリと燻り、連絡をためらい時が過ぎた。この日も、今度こそは、と心に決めながら事前に約束もせず飛び出した。
もう八十歳は超えているはずだ。五年という時間は長すぎる。会えないかもしれないとあきらめかけていた時、電話がつながった。
「井藤さんのお宅ですか?」
「はい、そうです」
「覚えていらっしゃいますか?宮崎の坂本です」
「はぁ」
「以前、ピアニストの松浦真由美さんと一緒にうかがった者ですが」
「ああ、新聞記者の方ですね」
「近くまで来ています。今からうかがってよろしいでしょうか?」
「どうぞ。お待ちしています」
出発して八時間近くたっていた。電話から聞こえてきた元気そうな声にほっとしていると、助手席の同行者は「やっぱりね。絶対に会えると思っていたよ」そう言ってニヤリと笑った。
鹿屋に着く頃にはもう黄昏が近づいていた。市の中心を走る大通りを曲がると細い路地が続く住宅地。道に迷っていると、家の前に立って、こちらを見ている女性がいた。
半世紀前の戦争をたどった私と友人たちの旅の記録「月光の旅」で最後に書きたいと思っていた人との再会。五年ぶりの懐かしい笑顔だった。
井藤道子という八十三歳の女性が歩いてきた道のりに、もう一度触れることになった。それは私に新たな旅の始まりを予感させた。
井藤道子さんと5年ぶりに再会。83歳とは思えないほどお元気で、生き生きと思いで話を語ってくれた(鹿児島県鹿屋市の自宅で)
井藤道子。大正六年、愛媛県生まれ。鹿児島県鹿屋市在住。八十三歳。
幼くして父を亡くし、母の実家で育った。小学生時代から体が弱く、六年生の時に重病になり死に直面する。その頃、すでに聖書を手にしていた道子は死を 「安らかな世界への移住」と受けとめていた。しかし、母を悲しませたくないために生きたいと祈り、奇跡的に回復した。
何のために生きていくのか 道子は考え始める。周囲にクリスチャンもいなければ、キリスト教会もない環境の中、一人で聖書を読み、一人で祈る。いつしか「クリスチャン少女」と呼ばれるようになっていた。
十六歳の時に女学校を中退。病気のもたらす深い悲しみや悩みを味わったことから「病む人々を慰め、励まし看護する道、それが道子の歩む道」と、病院に勤めながら看護婦をめざし、資格試験に合格。
しかし、その頃の道子は、心臓障害、結核性腹膜炎、腸結核、重度のペラグラ病を背負い、勤務と病床生活を繰り返す孤独な青春を送っていた。
二十歳になった一九三七年(昭和十二年)、道子の道を決定づけ、生涯の師と仰ぐ人物が現われた。無教会キリスト教伝道者で東大教授。戦後、東大総長になる矢内原忠雄である。
道子は矢内原の個人誌で「らい(ハンセン病)という病患を背負い、世人からは忌み嫌われつつも、世の人々とは異なる真実の愛の交わり、霊交の中に生きておられる方たち」の存在を初めて知った。
その矢内原が、道子の勤務する病院近くの小島にあるハンセン病療養所・大島療養所を訪れるというのである。しかし、道子は病の床にあった。
この日から道子は祈り始めた。
「主よ、どうか、この弱い私の身と心を強めて、らい療養所の看護婦として働けるようお導きください」
脳裏に幼い日の記憶が甦った。
「らい」と出合ったのは小学校に入る前。空海上人を信仰する祖母から、物乞いをしていた鼻のない人は「らい」という病気の人で、この人たちにはいつもお大師様が一緒におられ、そのことを「同行二人」というのだ、と教えられた。
祖父のところに届く年貢米の俵に、左手の小指とくすり指が曲がっている人が金具を刺し込み、米の品定めをする器用な作業を見た幼い道子は、「お大師様がこの人と一緒におられるから、あんな不思議な作業ができるのだなあ」と思った。
「らい病む人」への畏敬とあこがれが再び芽吹いてきた。療養所の看護婦として働けるようひたすら祈った。
この年の七月七日、北京郊外で日本の駐屯軍と中国軍とが衝突する蘆溝橋事件が起きた。日中戦争の勃発である。道子は衝撃を受けた。
「これから先、次々と続くであろう荒々しい日本の歩みを思って、私の魂は絶え入るばかりの孤独感に襲われ、またしても病床に倒れました」
日本は戦争への道を進み始めた。恩師・矢内原忠雄は真っ向から時代と闘っていた。
矢内原は大島訪問の頃、雑誌の論文「国家の理想」で、国の理想は正義と平和にあること、とりわけ弱い者の権利を強い者の侵害と圧迫から守ることがその実体である、と書き発禁削除された。
十月には講演で「きょうは、虚偽(いつわり)の世において、我々のかくも愛したる日本の国の理想、あるいは理想を失ったる日本の葬りの席であります。私 は怒ることも怒れません。泣くことも泣けません。どうぞ皆さん、もし私の申したことがお解りになったならば、日本の理想を生かすために、まずこの国を葬っ てください」と述べて弾圧を受ける。
十二月、東大を辞職に追い込まれたが、それでも矢内原は一貫して平和主義、非戦論を唱え、日本の軍国主義を厳しく批判し続けた。
道子の中でも「なぜ人と人とが争わねばならないのか?」という疑問が次第に膨らんできていた。
星塚敬愛園へ旅立つ前の井藤さん、当時23歳(井藤道子「祈りの丘」より)
二十四歳になった道子は周囲の猛反対を押し切り、鹿児島のハンセン病の国立療養所・星塚敬愛園の看護婦として赴任する。
当時、ハンセン病は恐ろしい伝染病のように受けとめられていた。らい菌によって主に皮膚や末梢神経が侵される感染症の一つだが、この菌の毒力はごく弱 く、感染しても発病することは極めてまれである。しかし、道子が療養所に赴任した頃は、警察まで動員して患者たちを強制的に隔離し、偏見と差別が患者たち を苦しめていた。
家族は激しく反対した。親族からも「どうしても行きたいのなら、近くの療養所ではなく、人のうわさにならない遠い所へ行ってくれ」と言われ、鹿児島を選んだのだった。
星塚敬愛園での勤務は一九四一年(昭和十六年)五月から始まった。
働き始めてすぐに道子は違和感を持つようになる。職員と入園者の関係に、支配する者と支配される者というような主従関係的なものを感じた。散歩に行っただけで患者は無断外出の罪で監房に入れられ、減食させられる。
クリスチャンの園長が、なぜそのようなことをするのか驚いたが、らい予防法という法律で定められているのだ、と教えられた。心の底に割り切れないものを抱えながらも黙って法に従うよりほかなかった。
やがて日本は太平洋戦争に突入。療養所も軍国主義一色になっていく。
「祖国浄化」というスローガンのもと強制収容が進められ入園者は激増。一九四四年(昭和十九年)には千三百五十人を超え、看護婦はわずか八人という状況になった。食糧難と治療材料難が襲う。
歌人でもある道子は、この時の状況をこう詠んでいる。(以後、文中の短歌は井藤道子の作品)
もう少し栄養の欲しと思ひつつ湿疹ひどき子の背を撫づる
うつむきて泣きゐしのみの幼きが傷つつむ包帯欲しいと言ふ
「愛する子供たちが戦争賛美へと駆り立てられる。つらかったけれど、それが間違いだと言えない。私は孤独だった」
道子は、日本の国というより、子供たちを思って祈り続けた。祈りに対する答えなのか、ある日突然“細き静かなる声”が聞こえた。
「日本の最大の罪、戦争開始の詔勅を発した天皇に、陛下自身の生命をかけて戦争終結の勅を発するよう、神からの命令、聖旨を告げに行け」
気が変になったのでは?と疑うほど途方もない“声”。神からの啓示だと確信した道子は決意する。
「二重橋を渡って、陛下にお会いすることは不可能でも、かつては首相であり、重臣でもある近衛文麿公が、天皇への補佐を誤り、日本の歩みを戦争へと進ま しめたことを考え、陛下へは、近衛公がその『罪』のあがないのため、公自身の生命をかけて、神の聖旨を伝えるべきで、私はそのことを近衛公に伝えればいい のだ」
一九四五年(昭和二十年)三月十日夕方、鹿児島駅発、東京行き夜行列車に乗り込む。空襲は日増しに激しさを増していた。死を覚悟し、再び生きて帰ることを望まぬ決心で旅立った。
日本を平和に返し給へとぞ今は申さむ天皇にこそ
ひたすらに我は祈るを天皇よ御命もて戦争を止めしめ給へ
ひたすら祈った。それが通じたのか、目の前の扉は次々と開かれ、何かに導かれるように旅した。
道子が星塚を出発した日の未明、東京は大空襲を受けた。B29三百機の爆撃により死傷者十二万人、焼失二十三万戸。
これ以降、主要都市は次々と夜間攻撃を受けるのだが、道子の乗った列車はその合間を縫うように走る。名古屋、熱海、大阪、神戸どの都市も道子が通り過ぎた直後に爆撃を受けた。
無事にたどり着き、知人宅に一泊。その翌日、自由ヶ丘の矢内原忠雄を訪ねた。近衛さんに会うために上京した、と話すと矢内原は驚き、こう言った。
「紹介状がないと、ああいう人は会ってくれないのだよ。断られたら素直に鹿児島へ帰りなさい。無理強いすると神様にしかられるかもしれないからね」
道子は近衛文麿邸を探して荻窪周辺を歩いた。通りには誰一人おらず、道を聞くこともできない。その時、背後から黒塗りの車が来て、運転手から尋ねられた。
「近衛さんのお宅はどちらでしょうか?」
道子は驚きながら言った。
「私も誰かにお尋ねしたいと思い、たたずんでいたところでございます」
運転手は近くの家で道を聞き、「三軒ほど向うだそうです」と言って車を徐行して案内してくれた。道子は車のあとについて近衛邸に入った。
車には宮家の使者が乗っていたようで、近衛家の秘書らしい人たちが出迎えていた。大門から邸内に入った道子は「毛利道子です」と出生名を告げた。大分県佐伯市の毛利家の出身である近衛夫人と関係のある者と思われたのだろうか、誰からもとがめられなかった。
道子はすぐさま庭掃除の老人に近衛文麿の居場所を聞き、湯河原の山荘に滞在中だと教えてもらった。その四日後の三月十九日、道子は近衛の山荘をめざした。
湯河原駅から温泉行きのバスに乗り終点で下車。そこは人家のないひっそりとした坂道の一角で、バスから降りたのは道子と小学五年生の女の子の二人だけだった。少女に尋ねると、自分の家のすぐ上が近衛文麿の山荘だと言って案内してくれた。
着くとそこは山荘の裏門。驚くことに目の前のサンルームに近衛がうつ伏して日光浴をしていた。道子は神の取り計らいだと思い、感謝の思いで胸がいっぱいになった。
不思議とも御摂理とも思ふなり近衛公縁に陽を浴みゐます
玄関にまわり、取り次ぎの女性に「日本の国を思い、君(天皇)を思う切なる真心から、死を決して大隅鹿屋の地から上京してきた者です」と書いた書状を渡した。
すぐ向うの部屋で近衛が道子の自己紹介状を読んでいる気配があった。しばらくすると女性が出てきて「遠い地からせっかくお訪ねくださったのにお気の毒ですが、紹介人のない方との面接はお断りしておりますので」
道子は恩師の矢内原忠雄から言われたよう無理強いせず帰ることにした。その時、女性に近衛への書状を託した。神から啓示を受けた言葉を記していた。
近衛文麿よ、汝は汝の生命をもって、天皇に申し上ぐべし。
「陛下は、御生命もて日本を平和に還し給え。
大和は 国のまほろば たたなづく
青垣山 こもれる大和し うるわし
うるわしの国、大和の国に還し給え。しかして、皇子明仁親王によき師を迎え、速やかに神の書聖書の真理を、学ばしむべし。これ、日本の国をあわれむ神の愛、神の言なり」と。
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その五カ月後に敗戦。近衛文麿は戦犯となった。GHQから逮捕される前日の十二月十六日、青酸カリを飲み自殺した。享年五十五歳。
井藤さんが師と仰ぐ矢内原忠雄・東大総長(中央)。1956年11月に星塚敬愛園を訪れた。
矢内原さんの左隣が井藤さん。
(国立療養所星塚敬愛園恵生教会創立50周年記念誌「恵みに生かされて」より)
気がつくと外は暗くなっていた。大きな歴史の渦の中を、深い信仰と揺るぎない信念で生きてきた井藤さんの物語は、時を忘れさせた。
はるか昔のことを昨日のことのように鮮明に語る。時には手を打って笑い、少女のようにはにかむ。五年前よりむしろ若返っているのではそう錯覚するほど生き生きしている。
「子供と同じなの。幼い子はこうと決めたら、さっと動くでしょう。私も同じ」
事もなげに言うが、厳しい時代の中で自分を貫くことは相当の覚悟がなければできなかったはずだ。
終戦直後の行動もそうだったに違いない。沖縄戦で戦死した兵士の遺骨をバッグの底にしのばせて検閲をくぐり抜け、沖縄から宮崎の家族に届けたのである。
これが「月光の旅」の最後に私が出会った物語であり、井藤さんとの縁(えにし)の始まりだった。
(つづく)
参考資料
「祈りの丘」井藤道子/「星塚敬愛園と私」井藤道子/歌集「野の草」井藤道子/国立療養所星塚敬愛園・恵生教会創立五十周年記念誌「恵みに生かされて」恵 生教会編/「近衛時代 上・下」松本重治、編集・蝋山芳郎/日本宰相烈伝15「近衛文麿」矢部貞治/日本平和論大系10「矢内原忠雄」
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