ホスピス旅日記’97 ⑮

◆ハロルド・クロスの丘にあるホスピス◆



 私がアイルランドのダブリンで泊まっているダブリンカレッジ大学の寮は自炊も出来るようになっていたけれど、次の日はセルフサービスの学食で、簡単な朝食を取った。私がアイルランドに着いた日の翌日、金曜日の朝は気持ち良く晴れていた。
 学食から窓の外を見ながら、今日は一日有効に過ごそうと考えた。
 まず、パスに乗って街に出掛け、オコンネル通りの電話局に行った。日本に電話をかける用事もあったが、そこからメアリ・エイケンヘッドの遺志をついで 1879年に出来たというOur Lady's Hospice(アワ・レディス・ホスピス)に電話をかけてみた。こうやって突然電話をし、見学を依頼するのも先方の事情など考えると、断られる可能性も 大きい。事前にちゃんとアポイントを取って行くべきなのかも知れないが、ここまで来て断られるのを恐れた。
 こんな時あの岡村昭彦はどんな風にしていたのであろうか?「遠い道」に書いてあるのは、 「・・・2つの病院には、直接に手紙を出したり、知人を通じて 事前にコンタクトが取れていた。しかし、あとの二つは全くのフリーであった。だが、どちらかといえば、私はあまり知人などを介しないで、自分自身の創意と 魅力と、外国人であるという条件を有利に使い、新しい道を切り開くのが好きだった。 ・・・中略・・・
 このアプローチが、在来のジャーナリズムに新風を吹き込み、末来を切り開いていく原動力となっていくのである」
 私にはそんなに人脈もなかったし、今までしてきたように体当たりで行く他なかった。私は電話がうまくつながらなかったのを幸い、直接行ってみることにした。
 どうなるか期待と不安を持ちながらバスを乗り継いでハロルド・クロスの丘に着た。大きな鉄の門の上には、Our Lady's Hospiceと書いてあった。アイルランドにはいつか来たいと前から思っていた。私はとうとうここまで来たという感慨を持った。

アワ・レディス・ホスピスアワ・レディス・ホスピス

 門を入って建物まで続いている道を歩いた。玄関について、少し躊躇したけれども、ここまで来て、建物だけ見て引っ返せる訳もなかった。自分の背中を押すようにして、入り口を入った。
 受け付けの女の人に用件を告げた。彼女は内線の電話をかけてくれ、そして「ちょっと待ってください。今、シスターが来ますから」と言って、その間、部屋 の片隅の椅子に座って待つようにと示した。しばらく、そこに待っている間、側に置いてあるメアリ・エイケンヘッドの張りのある顔の肖像の入ったカードや案 内書をながめた。
 しばらくすると小柄なシスターが現われた。彼女の名前はヘレナといい、マトロン(婦長)でもあった。私はここへ来た訳を話した。120年前に出来たこのホスピスが、今はどんな風なのか知りたいこと、そしてホスピスの歴史にも関心のあることを。
 シスター・ヘレナは「それでは緩和ケア病棟の方に行きましょう」と案内してくれた。玄関のある旧館の方は老人のための慢性期病棟になっており、新館の方 がパリアティブ・ケア・ユニット(緩和ケア病棟になっていた。ひとつひとつの部屋を案内してくださった。途中アジア系のスタッフがいたりすると紹介して下 さったりした。全体としては非常にオーソドックスなホスピスという感じがした。家族の滞在する部屋や子どもの遊ぶ部屋もあった。アメリカやオーストラリア で見た施設型のホスピスと大差なかった。ただ、アメリカの在宅を主体としたホスピスの方がダイナミックにずんずん新しいことに取り組んでいるように思え た。しかし、だからと言ってアメリカの方がいいというのではなく、これはこれでこの土地に合っており、伝統的なものを抱えながら、ゆっくりとしたペースで 進んでいるのだろうと思えた。
                                              
 敷地の一角に白い建物があり、そこにメアリ・エイケンヘッドが聖人として祀ってあるとシスター・ヘレナは説明した。ローマ法王庁は、ある人の死後100年たってから、その人が聖人であったか否かを、時間のフィルターに通して判断するそうなのである。  



◆アイルランドと日本◆   
 
 アイルランドというところは辺境の地にあるが、文化的にはかなり高いようだ。イギリスの数百年にわたる徹底的な植民地政策によって、痛めつけられたにも かかわらず、アイルランド文化はしたたかに生き続けてきたようだ。私はあまり詳しくは知らないけれど、現代でもこのような小さな国にしては有数の文学者や 世界的な音楽家が多数出ているそうだ。
 ガイヤ・シンフォニーという映画があるが、その中で極東の日本と極西のアイルランドとが文化的に奥底でつながるものがあるのではないか、というくだりが印象に残っている。
 そういえば、アイルランドでは“妖精”
が一般にも信じられ、今でも生活の中に生き続けているらしいが、明治のころ、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という人が日本にやって来て、強い親近感を 抱いたという。彼が日本の盆踊りを見たとき、あの提灯のあかりと単純な音楽と太鼓の音、ゆかたを着た人々が踊る様は、この世ならぬおとぎの国ではないかと 思ったという。 (講談社学術文庫「神々の国の首都」より)
アイルランド出身の彼が、その後、日本に帰化を決め、怪談話を書き続けたことはご存じのとおりである。 
 他にアイルランド出身で有名な作家は「ガリバー旅行証」を書いたジョナサン・スイフトである。彼については後段に書く。



◆アイルランドにあったヴァンサン・ド・ポール◆

 再び、トリニティ・カレッジの近くに戻り、ケルズの書などが展示されたオールドライブラリーを見学した。この大学の図書館は今や界有数の研究図書館でもあり、約300万部の蔵書が納められているいう。
 近くの本屋にも行って見た。アイルランドの歴史に関する本が壁一面のコーナーをつくっているのにはびっくりした。これだけ、人々はアイルランドの独立の問題とか、国のことを考えているのだろう。
 例によって国立博物館に行き、その後、
スチーブンス・グリーンという公園に行った。いつしか夕方になっていた。
 ここの国にいるのはたった3日半なので、短い間にできるだけたくさんのものを見ておきたかった。セント・パトリック教会に行ってみることにした。地図を 見ながら歩いた。あるところで、道を確かめるため 、ちょうど道端のベンチに座っている男の人がいたので尋ねた。その人は「自分は知らない」と言った。よ く見るとその人はけっこう汚い格好をしていた。ホームレスの人らしかった。 「日が暮れたので、今からここに行こうと思って」と、その人は向かい側の2階 立ての建物を指差した。そこには「ヴァンサン・ド・ポール・ナイト・シェルター(夜の避難所)」と書いてあった。
なるほど、17世紀にフランスに出来たものが、時と所を隔ててここにもあるのだな、と思った。福祉などのことについてヨーロッパと日本との大きな違いは、こうしてひとつの運動が数百年も時には千年も続いているということだ。



◆セント・パトリック病院◆

 次の日は土曜日だった。ヨーロッパに来て、気をつけなければならないのは、週末にはほとんど公共機関はおろか、事務所や店などほとんど閉まってしまうので、まともな用が足せないということだ。
 私はすっかりそのことを忘れていた。土曜日をはさんで月曜の朝早くにはアイルランドを発たなければならない。私はもう一つ、ダブリンでジョナサン・スイ フトの遺言で建てられたという精神病院、セント・パトリック病院を訪ねたいと思っていたのだった。昨日のうちに訪ねておけば良かったと思ったが、もう遅 かった。
 スイフトは精神病者の人権のことを考えてこの病院をつくらせたというが、岡村昭彦の「遠い道」によれば、この病院の入院案内書がすばらしいという。病院 の管理の側に立った入院案内ではなく、患者が中心の入院案内だというのである。岡村が訳したものはあるが、ここまで来たから原本をもらって帰ろうかと思っ ていた。
 セント・パトリック病院はコーク市(メアリ・エイケンヘッドが生まれたところ)に行くための列車が出るヒューストン駅のすぐ隣にある。今日はコークまで 行くつもりだったので、列車に乗る前にセント・パトリック病院に寄った。受け付けには若い女の人が座っていたが、入院案内のことを話すと「私には分かりま せん。月曜目に婦長が出てきますから、その時もう一度来てください」ということだった。しかたなく私はもう一度来たときにしようと考えた。

マザー・エイケンヘッドの生まれたコークの町
マザー・エイケンヘッドの生まれたコークの町

◆「コーク行きの列車の中で◆

 コークまではダブリンから3時間かかる。列車はそんなに混んでいなくてあちこち空席があった。
 ところで、このアイルランドはカソリックの国だが、街にシスターの姿がよく目につく。私はクリスチャンではないが、むかし若いとき、数か月、カソリック の修道院といわれるところにお世話になったことがあるので、今でもシスターの姿を見ると何となくなつかしい気持ちがする。なにか宗教の話でもしてみたくな る。
 列車の中のひとりのシスターが座っていた。その隣の座席が空いていたので、そこに座らせてもらった。
 コークまでの3時間の間、ぽつぽつそのシスターと話をした。チャリティー・オブ・アフリカという女子修道会の一員だということだった。もう結構お年だったが、若い時から、アフリカに行き、そこでアフリカのために奉仕した。今は年をとったので、
リタイヤして修道院に戻ってきたのだという。彼女とはいろんなことを話した。神様のこととか、たとえば彼女が語ったことの中に「世の中に、キリスト教とか 仏教徒とかイスラム教とかあるけれど、皆それは人の創ったものですよ。例えば人が死んだとき、天国でおまえは何教か?と神様が聞き、もし仏教だったらあっ ちへ行け、というようなことはありえない。神はそんなちっぽけではない。神はすべてですよ」と言った。
私にはシスターがこんなことを言うのがおもしろかった。私も「そうですね」と言って笑った。
 私はホスピスのことを話した。自分がこんなことをしたい(ホスピスのようなことをしたい)というようなことを。そのシスターは、 「あなたの話を聞いて いてこんなことを思いました。あなたに聖書の中のこの言葉をあげましょう、あなたの仕事にぴったりだと思います」と言って次の言葉を紙に書いてくれた。



これは(世界に出ていって,Good Newsを伝えなさい)という意味である。
私にはホスピスの思想というものを考えてみるとGood Newsという言葉はぴったりだと思えた。
もちろんキリスト教的に日本語に訳すとGood Newsは「福音」ということになるが。
 話をしている内に列車はコークに着いた。私はコークで泊まるところを決めていた。ダブリンの大学の寮に泊まったとき、事務所にポスターが貼ってあり、コークでいちばん安い宿とあった。私はそこに電話をしておいた。
 「ホテルまでバスに乗って行くよりはタクシーの方が、いいですよ。あなたには時間がないんだから。お金より時間の方を大切になさい。それにここはタク シー代が安いから」といわれたシスターの助言に従って、駅前でタクシーをひろうことにした。シスターとは手を振って別れた。
 タクシーに乗ってコークの街中を5分ほど縫って走ると、タクシーはホテルの前に着いた。そこはシャンドン教会の裏庭に面したところにあった。汽車の中で 地図を見ながら分かったことだが、なんとここはメアリ・エイケンヘッドが子供の頃に育った、育て親の家のほとんど隣りであり、シャンドン教会は彼女の父親 の通った教会だった。
 ホテルに着いたちょうどその時、教会の鐘が時を知らせていた。この鑑は音階を取れるようになっているらしく、 「ロンドンデリーの歌」が流れていた。私 はなぜか、ずっと昔からこの曲が好きであった。午後の3時を知らせているらしい。私の旅もそろそろ終わりに近づいている。
               つづく