ホスピス旅日記’97 ⑩

先月、原稿を書いている途中で思わぬアクシデントが起こってしまった。
それは使っているパソコンの事故だった。ほぼ原稿を書き終えていた頃、途中でインターネットにつなげようとして、何の誤りかコンピューターがバンクしてし まった。書きかけの原稿はおろか、コンピューターのシステムが破壊され、すべての機能が壊れてしまった。何より困ったのは「ホスピス旅日記」の原稿締め切 りまであと1、2日しかなかったことだった。
結局、夜寝ずに書き上げたが、おかげであちこちに誤植はあったし、旅についても十分書き切れなかったという思いが残っている。今はコンピューターは復旧し てほぼ元のようになったが、もうこりごりという気持ちだ。あまりにこういうものを信用しすぎるととんだしっぺ返しを食うのかも知れない。そういう訳で今回 は前回に書き足らなかったところ、間違いのあったところを書いておきたいと思う。



◆看護師という呼び方◆
突然だが英語にはこういうことがある。
例えばPolice manという単語がある。もちろん警察官という意味である。しかし、最近では女性の警察官も増えてきた。それでmanばかりではなくなってwomanも多 くなってきた訳である。それではPolice womanと言うかというと、そうではなくてPolice officerという表現を使っている。女性の警官が出始めたころはPolice womanとも言ったが、現在ではあまり使われないようだ。
消防士についても同じことが言える。女性の消防士が増えるに従ってFiremanからFire fighterという言葉を使うようになった。つまり消防士がいて、女性のそれを消防婦とは言わない訳である。スチユワーデス(Stewardess)と いう女性を表す-essを使うより、現在はFlight attendantを使うようになっている。英語とくにアメリカでは社会の実情に合わせて、言葉を使い分けていくということが意識的に行なわれているよう だ。IndianのことをNative Americanと呼ぶようになったのもそうだ。インディアンは「インド人」ではなくてアメリカの原住民だという意味を表すためである。
たかが呼び方だと言われるかも知れない。しかし言葉は意識を規定していくし、意識はまた言葉を規定していくものだと思う。言葉と意識とが関係ないということはあり得ない。
私は看護(婦)という言棄がひとつの職業を表す言葉としてふさわしくないと思う。美容師を美容婦とは言わないように、栄養士を栄養婦とは言はないようにである。
岡村昭彦が「遠い道」の中で「古い男と女の関係のまま固定してしまった看護婦の原型」というような言葉を使っているが、ホスピスを考えるときに、チーム間の職種が対等でなければホスピスは成り立たない。
チーム間の上下関係は医療者と患者間の上下関係につながって行くからである。保母の世界にも保父というものが生まれたが、最近、保母という呼び方を止めて保育士にしようという動きがある。ここらで看護(婦)も呼び方を変えねばと思う。



◆フランスの新幹線◆
さて、ジュネーブのコルナバン駅で列車に乗った私は、緑と水の豊かなジュネーブの街に心を残しながら、次の訪間地リヨンに向かった。この列車はフランスの 国際列車TGV(テージェーベー)で、現在、世界最速の列車である。昔乗った時には座席がずいぶん窮屈だと思ったが、現在はそれも改良されて非常に快適で あった。
このフランスの新幹線の料金が日本のに比べて非常に安いのである。ジュネーブからリヨンまで、普通乗車券の他に20フランの「特別料金」を払うだけである。それで座席指定にもなる。20フランといえぱ日本円にして500円くらいのものである。
リヨンーパリ間でも料金は同じく20フランだが、日本だと新幹線の特別科金は1万円くらいすぐに取られてしまう。なぜこんなに違うのだろう。
加えて日本では高速道路の料金なども非常に高い。第3世界などを含めても日本の高速料金は世界一だという。そういう公共的な交通料金の高さや名所旧跡どこ に行ってもお金を取られるということから暮らしにくいという感覚が生まれる。いつもは当たり前かなと思うが、よく考えてみれば高速料金などなぜ利用者がこ んなにも半永久的に負担しなければならないのだろう。よその国でタダにできるものがなぜ日本ではあんなに高く支払わなければならないのだろう。また例えば 京都なんかの寺社にしたって、どうしていちいち入場料を取られるのだろう。
アメリカでは高速道路はすべてタダだったし、すぱらしい庭園や植物園もみんな無料だった。ヨーロッパでは数百年から千年もたっているすばらしい寺院なども すべて自由に入れた。日本だったら国宝だとかいって柵をしてしまって入場料を取るだろうなと思ったら、こういうところにも豊かさの違いが出ていると思っ た。
また日本では公共事業の建設費は世界の国々に比べて一割づつ高いそうである。もちろん物価をすべてスライドしたのちにである。建設発注から完成に至るシス テムの何処かでその一割が消えていっている訳だと思う。公共事業の費用は半端な額ではない。何千億円、あるいは何兆円にもなることもあるだろう。その一割 がどこかに消えていっているのではないだろうか。それがあるいは高速料金とかの金額にはねかえって来ているのかも知れないと思う。



◆ジプシーのこと◆
さて、物価の話はそれくらいにして、私の旅にもどろう。列車の中ではドイツから来た青年と話した。フランス語の勉強のために夏休みの間ツールーズでの夏期 合宿に楽しみを兼ねて参加するのだという。若い頃からこうしていくつもの外国語を学んでいくヨーロッパ人たちは羨ましいかぎりだ。
列車はリヨンのパール・デユー駅に到着した。リヨン、またはフランスにはこのようにデユーという言葉のついた名前も多い。
このDieuとは英語でいうとGodつまり神という意味である。伝統的なカソリックの国であるフランスにはこうして宗教的な影響を国の随所に見ることができる。   
ホスピスの古い源流のひとつともなったと考えられるHôtel-Dieu(オテル・デュー、<フランス語ではHは発音しない>)病院も「神の宿」という意味である。

リヨンの町

リヨンは私にとっては初めて訪れる街であった。駅に着くと、さあこれからどこへ行こうという感じだった。とりあえず駅前のカフェに入って昼ごはんでも食べながら、風がどちらから吹いてくるかそのにおいをかいでみようと思った。
フランスではレストランやカフェどこへ行ってもプラ・ド・ジュールといって、その日の日替わりメニューというのがある。メインは魚か肉か、スープは何がい いかなど選択制になっていて、そこから選ぶわけである。これはやっぱりいい習慣だと思いながら魚を注文をした。すると日の前に突然、少し色の浅黒い、痩せ た女の人が手を差し伸べて〝食べる物をくれ〟とジェスチャーで示した。スイスではまったくそんなことはなく、〝物乞い〟を一人も見たことがなかったので、 私はただどぎまぎとしてしまっただけだった。彼女が私から隣の客へ移り、ひとりひとりそうやって尋ねて行くのを見ていると、他にもそういって〝物乞い〟を している人たちが幾人もいた。ああこれはジプシーの人たちだということが分った。
ジプシーたちは主にヨーロッパ大陸の中をどこへも定往することなく、また国を持つ訳でもなく、移動しながら暮らしている種族である。彼らは大道芸とかその他いろいろな事をして金を稼ぎながら移動している人たちだ。
国際社会の中でいわばこの人たちは特殊な人たちだ。しかし私はこれらの人たちも非常に大切な存在ではないかと思う。
こんな話しがある。野性の猿の群れがあると、その中にはボスがいてサブボスがいて階層制がきっちりと出来ている。つまり社会としての秩序がしっかり出来て いる訳である。しかし、そこにたいてい一匹狼のようにその社会に人らない 〝はぐれ猿〟がいるというのである。その〝はぐれ猿〟はいろんなところを渡り歩 いて、時々群れの端の方に帰ってくる。しかし、けっしてその群れの中に入り込んでしまうことはない。
しかし、このはぐれ猿がこの群れにとって非常に大事な役割を果たしているのだというのである。実はこれはテレビで見たのだが、どういった役割だったか詳し くは忘れたが、要するにその膠着した社会に息を吹き込むような役割をするというのである。大きく見るとこういった 〝はぐれ猿〟の存在がないとこの社会の 存続もむつかしいというのである。ジプシーもこういった存在なのではないだろうか?
ジュネーブで赤十字博物館に行った時、その展示の中でナチスがユダヤ人と同じようにジプシーたちもトラックに乗せて連れて行ったという写真を見たことを思 い出した。ナチスなどのように〝弱いもの〟〝いらないもの〟を整理してしまったところに社会自体の存続はありえないと思う。

ユトリロ風の趣のある町

◆リヨンの宿◆
結局、バスに乗ってリヨンの街の真ん中ほどにあるベルクール広場の観光案内所まで行き、その夜泊まるホテルを探した。(この観光案内所は岡村昭彦が「遠い 道」の中に書いている)この旅で宿泊にお金をかける気はなかった、中くらいよりはいっそ気持ち良く最下等が良かった。教えてもらった往所を頼りに、重い スーツケースを転がしてベルクール広場から裏通りのいかにもフランスらしいユトリロ風の白壁の続く通りを歩いてその宿まで着いた。リヨンで一等安い、つま り観光案内所のホテル一覧表の一番下に載っているホテルにしてはけっこう立派だった。映画なんかに出てくるような自分でドアを閉めるあの旧式のエレベー ターに乗って2階まで上がると、宿の奥さんが気難しそうな顔をドアから出した。「さっき電話をした者だけど」と簡単なフランス語で言うと、その気難しそう な顔がいくらか弛んだ様だった。それからふたこと、みことシャワーはここでとか朝食はどうでとか話して部屋に案内された。最初の気難しさは取れていた。
ここはもうきっと何百年もホテルをやっているのだろう。天井も高く、部屋も割合余裕があって、窓から中庭を見下ろすことができ、朝食もまずまずでこの安さにしては快適だった。
全子光晴が『ねむれ巳里』の中でリヨンの安宿について書いているそうだが、金子や岡村が出会ったような息苦しさは私は味あわなかった。ここを拠点にして次の日からあちこちリヨンの街を歩き周った。



◆ホスピス博物館へ行く◆
この街でまず行きたかったのは、ホスピス博物館があるというオテル・デユー病院だった。ホスピス博物館と言っても、日本で言うところの「ホスピス」の博物館ではなくて、医学または看護の歴史博物館と言った方がイメージが正確かも知れない。
観光案内所で聞いていた場所と時問に合わせてホスピス博物館に行った。ホスピス博物館のあるHôtel-Dieu(神の宿)病院はベルクール広場からそう遠くないところ、リパブリック大通りからひとつ道を入ったところのローヌ川添いに古い建物がある。
リヨンのオテル・デューは最初、西暦542年に建てられた。実質釣には中世に入ってから修道士たちの手によって旅の途中で倒れた巡礼たちや貧しい人々を助 ける活動がされた。そこにホスピスの原型が見られる。一方でオピタル・ド・ラ・シャリテ(慈善病院)が16世紀に創られた。それがフランス革命のナポレオ ンの頃にオテル・デューと合併されて、Des Hospices Civilis(デ・ゾスピス・シビル)市民ホスピスと呼ばれるようになったのである。その後、今でもデ・ゾスピス・シビルよりオテル・デューの方が呼び 名として親しまれている。
フランス革命の頃までは、ヨーロッパの医療、看護の状態はひどいものだった。ひとつのベッドに4人も5人も寝せられる有様だったという。ベッドからあふれ ると、交替でベッドに体を休めるという状態だったという。それがフランス革命の頃から人権ということがいわれ、病院の改革が進められていった。
オテル・デューは私たちが病院としてイメージするものとはほど遠く、古風な修道院のような石作りである。その中にいろいろな科が存在する。ホスピス博物館 はその2階の一角にある。中に入ると棚に並べられた無数の薬の壷が目に入る。中世からの外科手術の歴史、鉄製の医療機器、ベッドなどが展示されていた。ペ ストが流行った頃に便われたカラスを形どった黒いコスチュームもあった。解からないところを係の人に訪ねると親切に教えてくれた。無知の中で行なわれた中 世の外科手術は驚きだった。それとヨーロッパで看護を担ってきたのは修道女、修道士たちであることが明らかだった。


岡村によると、リヨンの市民ホスピスには現在約20の病院が含まれ、32名からなる管理運営委員会によって運営され、職員は1万5千人、癌などの研究機関と国際看護学校などの養成機関も内蔵している。全体的な市民への福祉機関の役割を担っているようだ。



◆古本屋にて◆
リヨンには3日ほど滞在したが、ホスピスと人々の生活とのつながりを感じたいために、ホスピス博物館の他に絹織物博物館、歴史博物館、バシリク(大寺院) などを訪ねた。ソーヌ川より山手にあるオールドタウンの通りを歩いている時、ふと古本屋が目に止まった。なにかオテル・デュー関係の本でもあるかもしれな いと思い、古本がうず高く積んであるその店に人った。本の間の店の中ほどに座っている主人に「オテル・デューの歴史に関する本はないか?」と尋ねた。主人 は「ああ、それならあるよ」と言って、棚に梯子を掛け、棚の一番高いところから大きな分厚い本を取って下りて来た。「これだよ」と私に手渡した。それはた いそう立派な本だった。図鑑のような大判で、数百ぺージもある分厚いものだった。中身も542年~1952年までのオテル・デューの歴史が写真と魅力的な 挿し絵人りでびっしり記されていた。もしこれを岡村昭彦が見たなら喜ぶだろうなと思いながらぺージをくった。私にはとうてい手が出ない、値段は600フラ ンだった。学者でもない私にはとてもじゃない。日本に帰って岡村昭彦でも生きているなら、買って帰って差し上げたいが、それもできない。
店の主人には「すまないね、立派すぎてとても買えないや」と言って店を出た。
その後、山の上のバシリクやコロッセアムの跡に登った。



◆リヨンの人の人情◆
フランス特にパリへ行くと、観光客に対してつっけんどんな人が目立つ。しかしここリヨンではまだフランスの田舎の良さが残っている。私は人々は非常に親切 という印象を持った。地下鉄の駅で乗り方を尋ねた中年の男性は、電車に乗ってから、乗降ロは私とは離れていたにもかかわらず、私のところまでやって来て、 地下鉄の目動改札のシステムを説明してくれ、あなたのは違っていたようだからとニコニコしながら教えてくれた。
あるところで道を尋ねた婦人は、道を教えた後に「Bon sejour chez nous!(ボン セジュール シェ ヌー)と言ってくれた。これは「私たちの国の滞在を楽しんでいってくださいね」という程の意味だ。慣用句かも知れな いが、私はこの言葉とその人の微笑みに感激してしまった。



◆パリへ◆
再びパール・デュー駅からTGV(テージェーベー)に乗り次の訪問地パリに向かった。この辺を通るといつも思うが、パリと次の都市との間に延々と田園地帯が広がっている。
フランスは先進国とはいいながら、基本的には農業国だ。たしか今でも30%近い農業人口があるはずだ。コンコルドだのTGVだの近代化も世界の最先端を行っているが、足元である農業もしっかり確保しているのは賢いやり方だと思う。
一方、日本では新幹線に乗ると東京から九州まで途切れることなく延々と工場や家々が続く。はたして日本はこれでだいじょうぶなのだろうかと思ってしまう。  
列車はやがて大都市パリに入っていく。パリではシテ島にある病院博物館やヴァン・サン・ド・ポールの足跡をたどろうと思う。そして旅はアムステルダム、ロンドンへと続く。    

 (つづく)